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五感の研究と某国

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 自分は、もう助かることはない。ハッキリ言って、味方からは見捨てられた存在だ。しかも、味方のことを話せとばかりに、想像を絶するほどの拷問が待っている。しかし、それに耐えて、何も言わなかったとしても、自分が助かる見込みはない。
 下手をすれば、拷問によって、殺されるのを待っているだけになってしまう。そんな状態なのに、自分を見捨てている味方なのに、秘密を守らなければいけないというのは、理不尽でしかない。
 もちろん、
「相手に捕まったら、拷問を受けても、殺されても、こちらの情報を流さない」
 という鉄の掟がある。
「忍者が味方を裏切った」
 などという話は聞いたことがない。
 果たして、本当にそうなのだろうか?
 保身のために、自分が生きることは、卑怯とは言えないかも知れない。忍者の郷の教えでも、
「相手に捕まれば、もうそれは捕まった人間が悪いわけで、郷の方としては、一切の関与を否定する」
 と言われてきた。
 そんな悲惨な運命しか待ち受けていない人生、そこに何があるというのか、もちろん、そこに明るい希望などがあるはずもなく、決められた一生をいかに生きるかということで、自分がそうなるのか、すでに、決まったようなものではないか。
 その中でいかに、任務を全うするかということが重要で、あまりにも生き方の違う君主との間に、いかなるギャップがあるというのか、それが問題だった。
 もっともこの時代は悲惨なのは忍者だけではなく、足軽から農民、さらいは主君であっても、生きた心地のしていない。考えているのは、
「最期を迎える時は武士らしく、最期を迎えたい」
 という、皆唯一の共通点なのではないだろうか?
 そんな忍者も、
「音を立てない」
 ということには注力していた。
 中には、自然の音に足音を紛れ込ませるというような、いわゆる、
「木を隠すなら、森の中」
 であったり、
「ウソを隠すなら、本当のことに紛れ込ませればいい」
 と言った考え方に準拠したかのような方法であった。
「ひょっとすると、モスキート音というものと、他の音を紛れ込ませることで、さらに、もスクートの効果が発揮されるかも知れない」
 と考えた学者もいた。
 しかし、それをそのまま実行したのであれば、うまくいくものもうまくいかないと考えていた。
 なぜなら、モスキート音は、そもそも、聞こえない音だからである。下手に他の音とそおまま紛れらせると、今までモスキートだと分からずに意識することもなく、音の存在だけを認識していた若い連中が、不審に思うかも知れないからだ。
「認識はしていても、意識していないという状況は、ステルスの状況を十分に果たしている」
 といえるだろう。
 それを下手に意識させることで、それまでの、意識していなかったことが、違和感から意識に向いてしまうのであれば、それは大きな問題であろう。
 モスキート音の、ステルス効果は、何も、認識させないところまでを求めているわけではない。
「認識されても、意識させなければ、それはまるで自然界の中の音として、余計なことに考えが及ばないのだ」
 といえるだろう。
 しかも、最近の研究の中で、
「モスキート音は、五感の機能をマヒさせる効果があるのではないか?」
 と言われていたりもする。
 もちろん、これは研究自体が、国家の最高機密部門にあたるので、そんなことを誰も知る由もないことだろう。
 だから、そのモスキートが、聴覚以外のどこに影響を与えるのかという研究が行われる中で、今、世間で、モスキート音というものが、注目されることを恐れた。
 そもそも、コウモリのように、音波を出して、その物体の反射で、その距離を知ることができるというのは、視覚というものの、メカニズムとも似通っているのではないかとも思えるのだった。
 人間が、立体感を感じ。距離とバランスを図ることができることで、視界というものが、
「まわりのものを見る」
 ということだと分かれば、見えていることが不思議でも何でもないという理屈が成り立つだろう。
 しかし、見えていたものが、急に見えなくなるとどうだろう? 目の前のものが見えない。何も認識できない闇が襲ってくると、それが、
「目が見えない」
 という自分だけのせいなのか、あるいは、
「暗黒の世界が襲ってきた」
 という、原因は自分ではなく、まわりのせいだと考えると、どちらがマシなのか、無意識に感じようとするかも知れない。
 しかし、考えれば考えるほど、どちらも、絶望にしか行き着かないことが分かってくる。自分だけが原因であれば、
「一度見えなくなってしまうと、その回復はほぼ見込めない」
 という現代の医学で考えると見えてくるのは、絶望の二文字しかない。
 自分の目は問題なくとも、まわりが暗黒に包まれているのであれば、それこそ、もうどうにもならない。なぜなら見えないのは自分だけではなく、まわりの誰にも見えないからだ。
 まわりが自分のために気を付けてもらえるようにすれば、自分のまわりだけは、人の助けで、生活していくことができる。しかし、まわりを含めての全滅であれば、誰が救いの手を差し伸べてくるというのか?
 しかも、その被害の範囲がどこまで広がっているのか分からない。何しろまわりが、一切見えないからだ。モスキートを使えば、気付かれずに近づいて、暗黒の世界を作ることで、自分たちだけはモスキートに守られて、支配できるのではないか?
 という考えでもあった。
 まるで、毒ガスが充満している中で、ガスマスクをつけているかつけていないかという問題に直面した時、
「ガスマスクを供給するから、我々が支配者だ」
 といって脅せば、少なくとも、一気に全滅は防げるだろう。
 その間に、策をめぐらせて、空気を浄化させることで、いずれは、自分たちの領土を取り戻せるという考えも浮かぶ。何しろ、そこは自分たちの土地であり、神のご加護の、
「地の利」
 というものがあるからではないだろうか。
 ただ、ガスマスクをつけていると、実に生活は不便だ。
「毒ガスが入ってこない」
 というだけで、昔、第一次大戦の時に毒ガスというものが開発され、実用化されたが、その時にその防御として付けたガスマスクというものが、かなり陳腐なものだったという。
 それもそのはず、毒ガス開発が成功して、いきなり実践で使用され、その恐怖が世界を震撼させたことで、ガスマスクの需要が必須となった時、まず考えるのは、
「ガスが入ってこないマスクを、一刻も早く作り、兵や市民に供給する」
 ということであった。
 そのために、供給された防護マスクというものは、あまりにも早急に作ったため、不慮品であったり、さらに、その使用方法も、確立されていなかったりしたことで、
「ガスを吸って死ぬよりも、マスクの装着に手間取ったり、間違った装着をしてしまったことで、窒息死した」
 という事例が目立ったのだった。
 そもそも、その頃は、毒ガスは戦場でしか使用されていなかったのに、戦争で占領された地域では、配られたマスクを、
「いつ、毒ガスがまかれるか分からない」
作品名:五感の研究と某国 作家名:森本晃次