五感の研究と某国
補聴器のようなものをつけて生活している人も結構いて、それまで、大きい音を嫌っていたはずの人が、自分から大きな音を立てても、気にならないのだ。
それだけ、自分が意識しているつもりでできていないのだろう。きっと、まわりの人は耳のことを知らないと、
「年を取ってから、人に気を遣うことを忘れたのかも知れないな」
と勝手に想像してしまうだろう。
要するに、大きな音を立てても気づかないほどになってしまっているのだ。気づかないことを、
「可哀そうだ」
とも感じるが、消耗してしまったことに気づいているのに、人への気遣いとのリンクが自分の中でできていないことに気づかないのだ。
そんな状況が、高齢者には増えてくる。
ということは、これだけ世の中高齢者が増えてくると、下手をすると、人に気を遣う人が減ってきて、皆がそれぞれに疑心暗鬼になり、そのうちに、自分すら信用できないという状況が、世の中のあちこちで見られるようになり、次第にある年齢から上と下とで、結界のようなものができるのではないだろうか?
そして、時が過ぎていくうちに、その年齢が次第に上がってくる。これが、今の世の中での一番の問題の一つである。
「少子高齢化」
という問題の側面なのではないだろうか?
年を取るということと、
「年を重ねる」
ということは違う。
そこには、
「美しさがあるかないか?」
ということが潜んでいるということであろう。
さて、モスキート音を使って、研究を進めているところがあった。これは、日本ということではなく、日本と同盟国である、某国軍部であった。
このように、
「限られた年齢にしか聞こえない」
という音は、軍事目的にて、何かを行う場合に、実に都合のいいものだ。今あるモスキートの音源を利用したものでの、ステルス性の兵器の開発であったり、さらに、もっとモスキートの制度を高めることで、軍事行動に幅を持たせ、作戦の成功を高確率にするという目的を担っている。
一度、このモスキート音の兵器についての情報が漏れたことがあった。某国国防相は、その事実を必死に隠していたが、その情報を盗み出した国家が、別の国への攻撃に使ったことで、もう隠しきれなくなり、世界に公表されることになった。
そもそも、モスキート音に関しての研究は、
「かなりの範囲で、研究を行う余地があり、まだまだ未知数の研究となるので、漠然としたことしか、公表はできないだろう」
と言われてきた。
しかし、某国国防相の内密な研究は、ある程度の具体性を持った研究をしていて、それまで、
「モスキート音における開発は、割に合わない」
と言われていたのだ。
しかし、それを補って余りあるだけの研究によってシミュレーションされ、出てきた模擬結果は、
「想定をかなり上回るもので、軍事予算を他から割いてでも、研究を徹底的に行っていくだけの価値のあるものだ」
と言われていたようだ。
実際に日本でも、もちろん、軍事目的ではないが、研究が施されていた。どこか、動物の本質に迫るもので、ひいては、人間の本性をも見抜くだけの力が、この研究にはあると言われていた。
もちろん、国家レベルでの開発はできなかったが、某国国防相と結びついている、某国大企業が、日本の企業に出資するという形で研究を行わせ、その出資に報いる形で、
「研究に成功するたびに、その研究結果を、その企業にだけ公表する」
というものだった。
そもそも、日本政府には公表できない。外国との企業とのこのような日本政府を無視した、単独の研究を許していないのが、日本政府だった。
今後の研究費も、某国企業が協力してくれるという、すでに強力なパイプができたことで、
「国家体制と関係のない、民間企業同士の研究」
というつもりだったが、実際には、某国国防相に、そのすべてが流れていくことになるのだった。
特に現代における、陸海空という防衛兵器、さらには、攻撃兵器に、一番の重要性は、
「ステルス性」
であった。
敵のレーダーに引っかかることなく侵入し、さらには、そこから妨害電波を出すことによって、攻撃目標を定めることができず、下手をすると、空中戦というドッグファイトを演じている、自国の戦闘機まで、標的にしてしまいかねないからだ。
何と言っても、今の時代は、ハイテクと言われるものによる戦争であり、実際の戦闘だけでなく、
「情報戦」
と呼ばれるものが、その力をいかんなく発揮している場合がある。
「相手を攪乱し、内部からクーデターを起こさせる」
という、いわゆる諜報活動なるものは、実際に昔から行われていた。
しかも、古代の戦争から、全世界で繰り広げられたといってもいい。
それも一種の作戦で、それが功を奏して、
「戦わずして、相手に戦意を喪失させ、無血によって、戦争に勝利する」
などということも、結構あった。
そんな時、無血で相手を屈服させるような戦術を用いた指導者を、
「英雄」
としてたたえることで、戦争の正当性が訴えられたり、相手国にプレッシャーを与えるなどという国家体制が営まれている。
それを思うと、ステルスという発想も、今に始まったことではないだろう。
日本でも、戦国時代を中心に、
「忍者」
というような集団が組織され、それぞれの流派があったようだ。
伊賀忍者、甲賀忍者、さらには、後北条氏の、
「お抱え」
のようになっている、
「風馬忍軍」
などというのも、その例であろう。
忍者の郷というのも、全国にはいくつもあり、
「忍者屋敷」
と呼ばれるものも少なくはない。
かつて、金沢でいった忍者屋敷も、床の間の隠し扉などの仕掛けが施されていて、どこの忍者屋敷も人気なのか、拝観には、予約制のところが多い。
ただ、理由としては、解説付きの拝観というサービスも多いだろうから、そういう意味で解説者に限りがあることから、予約制も致し方のないことだと言えるのではないだろうか?
そんな忍者というのも、修行が大変で、元々、忍者の修行をして、どこかの大名に取り入らなければ、生きていけないという事情があるのだろう。
本当なら百姓をして、年貢を納めてというのが、本来の生き方だったのだろうが、ひょっとすると、その土地では、農作物が育たないところであり、下手をすると、自分たちの食料だけで、精いっぱい。年貢どことではなかったのかも知れない。
そういう意味で、その土地に住んでいる人間が生き残るためには、
「いかに、自分たちの個性であったり、肉体を生かして、主君に奉仕するかということしかないわけだ」
といえるだろう。
幼少の頃から、忍者としての修行は厳しく、それこそ、生死を分けるような訓練を幼少の頃から続けてきたのではないだろうか?
そういう意味で、忍者の掟は厳しいという。
ドラマなどで出てきた忍者の掟は、それはそれは厳しいもので、まず、相手に捕まると、こちらの存在は、味方は、認めてはくれない。捕虜にでもなってしまうと、処刑されることをほぼ覚悟しなければならないだろう。
しかも、相手の秘密を白状させるために、この後自分に待っているのは、苦痛でしかない、
「拷問」
なのだ。