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五感の研究と某国

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 そもそも、おとぎ話や寓話というものは、どこか、教訓めいたものがあり、そこに、利害が結びついていると考えるのは、一番都合がいいのではないだろうか?
 そもそも、どこかの権力を証明したいという考えから作らせたものが、寓話だとすれば、理不尽かも知れないが、世の中をまとめていくうえで、必要な悪、つまりは、
「必要悪」
 と呼ばれるのではないかと思うのだった。
 コウモリというのは、その卑怯と言われたことから、他の物語でも使われるようになる。特に、相手によって態度を変える、日和見的な、風見鶏のような身の軽さは、ある意味、
「一番、人間臭い」
 といえるのではないだろうか?
 人間に例えられるのも、そのせいであり、ある意味、
「人間になりきれなかったロボット」
 という意味でも、コウモリが題材にされる話もあったりした。
 そういえば、吸血鬼ドラキュラというのも、コウモリ男爵のようなものではないだろうか?
 そんなコウモリの話が出てきたのは、あるロボット開発の小説の中でのことだった。
 その小説は、今から、40年くらい前の、SF小説がブームであり、日本でも数人のSF作家が活躍していた時代だったが、それほど有名ではなかった作家ではあったが、それがSF小説黎明期だったこともあってか、本来なら、
「もっと注目されてもいいはずの作家だった:
 と、この話を教えてくれた高校の時の先生を思い出していた。
 先生から本を借りて読んでみたのだが、ちょうど、その頃、ロボット開発において、
「ロボット工学三原則」
 の話が話題になることがあった。
 元々、この、
「ロボット工学三原則」
 というのは、物理学者だったり、工学者が提唱した話ではなく、いわゆる、アメリカのあるSF作家によって提唱された、
「小説のネタ」
 だったのだ。
 というのも、元々の発端として、
「フランケンシュタイン症候群」
 というものがあり、
「理想の人間を作ろうとして、怪物を作り出してしまった」
 ということで、ロボット開発に警鐘を鳴らす作品があった。
 つまり、人間よりも強靭なボディや、強力な力を持っていることで、人間を苦しめる存在になるというものだが、その話があるため、ロボット開発を行う上で、
「人間に、危害を加えないことや、人間の命令に従順となる」
 という三原則を、あらかじめ人工知能に埋め込んでおくという考えであった。
 しかし、この考えには、それぞれに、絶対的な優先順位が存在し、その順番が矛盾を孕むことで、できあがるハプニングをSF小説として描いたものだった。
 そこから、
「ロボット開発には、ロボット工学三原則の理論が絶対に必要となるが、問題となる優先順位に、矛盾が起きないような人工頭脳を埋め込む必要がある」
 ということで、ロボット研究においても、矛盾が起こらない開発が研究されたり、逆に、SF作家は、その矛盾をいかに小説にするかということを研究していたのだ。
 きっとSF作家は、いつまでも、ロボットというものが、SF、つまり、サイエンスフィクション=科学空想物語であるということを願っていたのではないだろうか?
 実際に、小説家や、マンガ家が、SF関係の話を書く時、その根底にあったものは、ロボット工学三原則であった。
 不完全なロボットが、人間界においての葛藤を描いた時、コウモリロボットが出てきて、
「俺は、博士の作った中途半端な回路のせいで、人間にいいように扱われ、利用されてきた。人間ほど恐ろしい動物はいない。動物は生きるために、他の動物を殺すが、人間は欲のために、平気で人間をも殺す。そのくせ、神や仏を信じているのだから、それこそ矛盾というものではないか?」
 とコウモリロボットはいう。
「俺たちのことを人間は、卑怯なコウモリなどという話で、揶揄しているが、何てことはない。自分たちの性質を、俺たち動物になぞらえて、自分たちは、その中でも一番だというようなプライドをひけらかしながら、その実、自分たちの正当性を示すために、動物の本能を都合よく当てはめて、利用する。我々コウモリなど、いい迷惑もいいところだ。日和見だったり、強い方に靡くなどという性格は、人間ならではというもので、俺たちばかりが、神から罰をうけ、コウモリなどは、暗いところでしか暮らせなくなった。しかし、人間はどうだ? 罰を受けることもなく、世の中で、自分たちが一番優秀な動物だということで、まるで風を切って歩いているではないか? これほど理不尽なことはない。人間の人間臭さというものが、一番醜くて、卑怯なものではないのだろうか?」
 とコウモリロボットはいうのだった。
 この言い分は、何もコウモリロボットだけに言えるものではない。どれだけの動物が、人間が想像する性質の動物として利用されたことか。
「ウサギとカメ」
 あるいは、
「アリとキリギリス」
 のように、動物同士の比較はあるが、人間と他の動物の比較はない。
 それだけ、人間は、他の動物と違って別格だということになるのだろう。
「お前たち人間というのは、そんなに偉いのか?」
 と、コウモリは喋れない言葉で、叫んでいるかのようだった。

                 モスキート音

 聴覚の錯覚という意識で、錯覚ではないのかも知れないが、
「モスキート音」
 という言葉があるのをご存じであろうか?
「ある一定の年齢以上の人には、聞こえない音」
 ということなのだが、音の高さの中には、高音域になればなるほど、聞きづらくなってしまうということは往々にしてあるようだ。
「モスキート」
 というのは、
「蚊が飛ぶような音を表して、非常に高周波数の音」
 ということになるらしい。
 人間の耳の性質として、若い耳にしか聞き取れない音が限られてくるようで、それは周波数が高くなればなるほど、聞き取りにくくなるという。
 つまり、モスキート音というのは、
「ある一定の年齢の人以上には聞き取りにくい音だ」
 といえるのだ。
 だから、老人は平気であっても、若い人には苦痛で、ひどい場合には、両耳を塞いで、座り込んでしまうということもあるだろう。
 どうしてそうなるのか分からないが。感覚として、
「年寄りの耳には、耐えられない音なので、聞こえないようになっている」
 ということでないかと考えれば、信憑性もあるというものだ。
 確かに、人間は、聴覚だけではなく、五感すべてが、年を取れば、どこかしか、問題が起こってくるというものだ。それが、
「五感を感じる部分に限らず、人間の身体は、そのすべてが消耗品なのだ」
 といえるからだろう。
 特に、目や口の老化というのは、顕著なものだ。
 老眼になってきたり、歯がどんどん抜けて行ったりと、考えただけで恐ろしいと思えてくる。
 しかし、実際にその年になれば、襲ってくる老化現象も、最初は、ショックかも知れないが、最初から分かっていることなだけに、いかに自分が受け入れる心構えを持っていくかということを感じるであろう。
 耳に関しても、結構進み始めると消耗を感じるのは早いのではないだろうか?
作品名:五感の研究と某国 作家名:森本晃次