小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

五感の研究と某国

INDEX|11ページ/23ページ|

次のページ前のページ
 

 と思って読んでいる人がいると、白けてしまう。
 いや、そもそも、時代小説や歴史小説を好んで読もうという人は、
「まず歴史好きだろう」
 と思ってもいいのではないだろうか?
 歴史好きな人は、基本的な史実はある程度までは知っている。そして、大体の史実を頭の中でシミュレーションすることだろう。
 しかし、読み進んでいくうちに、まったく史実と違った内容であることが分かってくると、次に感じるのは、まるで、
「異世界ファンタジーでも読んでいるようだ」
 と、たぶん、
「パラレルワールド」
 を頭の中に思い浮かべることだろう。
 それを考えると、
「どこまで行っても、自分がドキドキするようなストーリー展開にならない」
 と思うと、
「何だ、この本は。騙された」
 と思うに違いない。
 それだけ、歴史という過去の事実は重たいものであり、そこをおろそかにしてしまうと、「ファンが離れていく」
 と思っていいだろう。
 小説の世界というのも、そういう意味で、もし、ウソで固めたとしても、面白ければ、そして読者が納得すれば、ファンタジーでも構わないのだ。
 だが、サスペンスドラマともなると、そうもいかない。少なくとも理論的に間違っていないということでないと、そもそもの、お話にはならないからだ。
 トリックというのは、
「その前提となる科学的な理論が間違っていない」
 ということが、最初にあり、そこからストーリーが考えられる。
 もっとも、ストーリーを考えるのが先か、トリックを考えるのが先なのかというのは、どちらが先でも別にそこに間違いはない。
 それこそ、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
 という理論であり、結果として、
「どこを切っても金太郎」
 と言われる金太郎飴のように、グルっと一周する形のものであれば、どこがスタートでも同じことだ。
 考えてみれば、ミステリーというのは、書き出しによって、いろいろな種類がある。つまり、最初に犯人が誰かということを示しておいて、探偵や刑事が、
「いかに犯人を追い詰めていくか?」
 というストーリー展開であったり、
 トリックも犯人も分からずに、事件が時系列に沿って進んでいくという、オーソドックスな話だったりする。
 前者の
「犯人が最初から分かっている」
 というパターンは、時系列がバラバラになることは、大いにあることである。
 ただ、まず最初に、犯行が行われ、その後で死体が発見されるというところからの時系列なのか、後者のように、犯行に関しては、謎解きの場面でしか見ることができないが、その分、最初から、つまり、死体が発見されたりするあたりからは、時系列に沿って流れていかないと、実際の謎解きの場面で、矛盾が生じてきたり、読者を混乱させることになったりする。
 ミステリー小説というのは、いくつかのタブーがあると言われている。代表的なものとしては、
「犯人を最後に登場させてはいけない」
 というもの。
 つまり、読者が、謎解きを楽しむ時間を与えず、いきなり探偵が出てきて、それまで出てきていない人物をいきなり、
「こいつが犯人だ」
 などというと、タブーでなくとも、読者からすれば、
「騙された」
 と思うに違いない。
 意外性の驚きであればいいのだが、この場合のように、反則行為であれば、許されることではない。
 そういう意味で、最期に謎解きを残しておく場合には、ある程度まで時系列に従う必要があるだろう。
 あからさまに、解決から時計を巻き戻すような書き方は、違反だということである。
 さて、そういうものを、
「ノックスの十戒」
 あるいは、
「ヴァンダインの二十則」
 と言われたりする。
 後は、
「超自然的な能力を用いて、探偵活動をしてはいけない」
「秘密の抜け穴、通路が二つ以上ある」
 などがそうであろう。
 また、十戒の中にも書かれているが、トリックの種類の中で、
「双子、一人二役はあらかじめ、読者に知らされなければいけない」
 とあるが、一人二役は、分かってしまった時点でトリックではなくなってしまうので、少なくとも、ヒントのようなものを、作中に伏線として、入れておけばいいという考えではないだろうか?
 ミステリーは、かなりの束縛があることから、書くのは難しいと思われるが、考えてみれば、ミステリーというものを書こうとした前提として、これらのことは、ある意味、
「常識」
 として捉えるということになるのではないだろうか?
 電子音がキーポイントになっているのだとすれば、それは一種の、
「音波」
 という考え方に密接にかかわっているような気がする。
 音波というものがなければ、生きていけない動物がいる。それは、自分で物を見ることができず、いつも暗闇で暮らしながら、しかも、群れを成している。相手とぶつからないように済ませるには、お互いに相手を見分ける能力であったり、空を飛ぶことで、危険のないようにするための能力を必要とする。
 その動物というのは、他ならぬ、
「コウモリ」
 であり、コウモリというのは、いろいろな意味で、注目されるものだった。
 たとえば、イソップ寓話の中に、
「卑怯なコウモリ」
 という話が出てくる。
 鳥と獣が戦争状態に陥り、コウモリはその時、
「獣に対しては、自分は身体中に毛が生えていることを理由に獣だ」
 といい、
「鳥に対しては、羽根が映えていることから、自分を鳥だ」
 といい、それぞれにいい顔をして、逃げ回っていた。
 しかし、戦争が終わり、平和になると、鳥と獣の間で、コウモリの話が出た時、
「やつは卑怯者だ」
 というレッテルを貼られることになった。
 そういう意味で、コウモリは、森を追われ、暗い洞窟の中で、夜しか活動できないということに追い込まれてしまった。
 そのせいで、目が退化してしまい、目が見えなくなった。そのため、聴覚だけは異様に発達したおかげで、
「超音波によって、自分の存在や、まわりを見分けることができる」
 というようになったのだ。
 これも、音が、波であるということからできることであり、逆にそんなコウモリの生態を研究することで、ドップラー効果が発見され、スピードガンのようなものが開発されることになった。
 これも、コウモリの生態を研究したおかげだと言えるのではないだろうか?
 音波のようなものを自分で発信し、その反射で、距離を測ったり、スピードを図ったりする。まさに、ドップラー効果が、波長であることで、実践化された、道具や兵器と同じではないか?
 そんなことを考えると、
「錯覚というものが、一つの文化を生むと言える」
 とも考えられる。
 コウモリの性質を、逆にたどって、作った話が、
「卑怯なコウモリ」
 であるとすれば、あのような話にしなければ、逆に、
「コウモリという動物が、他の動物にはない、超能力を持つことで、生きている」
 という証拠にもならず、この証拠が証明されることで、超能力の存在をも、肯定するということになると言えるのではないだろうか?
 そこに、利害関係が結びつくことによって、物語が、都合よく改ざんされたのだとすれば、他の物語も同じような都合のよさから生まれたのかも知れない。
作品名:五感の研究と某国 作家名:森本晃次