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五感の研究と某国

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 であったり、
「京都老舗ミステリー」
 というような、
「この作家なら、このジャンル」
 なるものが確立されていた。
 それが一種の時代だったのかも知れない。
 そして、他に読んでいた小説は、また打って変わって、時代がかなりさかのぼるものだった。
 時代背景としては、明治末期から、戦後すぐくらいの小説で、当時は、
「探偵小説」
 という呼ばれ方をしていた。
 いわゆる、推理小説、ミステリーと呼ばれるものの、
「黎明期」
 といってもいいだろう。
 いわゆる、
「日本三大名探偵」
 と言われる二人までもが、当時人気で、しかも、作者がお互いに仲がいいというのは、少しほほえましい気がした。
 そのうちの一人は、編集者も兼ねていたので、一人が活躍中は、もう一人が編集者としてサポートするというような仲だったようだ。
 彼らは、完全に、推理小説界のレジェンドといってもいいだろう。
 黎明期でしかも、戦時中からの、軍事統制がかかり、出版物の廃刊などが頻繁で、特に、探偵小説などは、ほとんど、廃刊になっていた時代だった。
 そもそも、探偵小説というのは、海外から渡ってきたものが主だった。
 いわゆる、
「シャーロックホームズ」
 のような探偵が有名で、今と比べると、結構、本格的なトリックを使った小説が多かった。
 日本に渡ってきてから、日本でも、
「本格探偵小説」
 を書こうとした作家が、
「すでに、トリックは出尽くしているので、これからは、バリエーションの時代だ」
 といわれるほどになっていた。
 特に、シャーロックホームズもののトリックは、誰もが認めるものであろう。
 そんな時代のミステリーは、明らかに今とは違っている。昔使っていたトリックが今では使えなくなったり、逆に、今だからこそのトリックというのもあるだろう。
 たとえば、死体損壊という意味で、
「顔のない死体のトリック」
 などというものがあるが、これは、顔を潰したり、指紋がある手首を切り取って、被害者が誰だか分からなくするというものであるが、今であれば、DNA鑑定をすれば、すぐに被害者の身元も分かるだろうから、なかなか通用するものでもない。
 また、アリバイトリックなどでも、今の時代は、いたるところに、防犯カメラやライブカメラが設置されているので、それらのカメラに映らずに、犯行を行うというのは、ある意味無理といえるのではないだろうか?
 そういう意味で、昔からあるトリックが今は科学捜査や、時代のニーズによって、犯行ができない環境が整ってきたといってもいいかも知れない。
 しかし、先ほどのように、電子音であったり、スマホやケイタイなどの普及が行われたことで、それを犯行に使うというのも、新しい手法である。
 だが、そんな中で、人間の五感という、
「人間には不可欠なものは、今も昔も変わらない」
 ということで、トリックとして考えるのは、無理ではないのかも知れない。
 そういう意味で、今から20年くらい前のサスペンスは、それなりに面白かったような気がする。
 逆に、本格探偵小説を読んでいたこともあって、どうしても、映像作品ともなると、面白みに欠けるところがあった。
 原作と、映像化された作品では、ほぼ、原作の方が面白いと言われている。
 これが今の時代のように、
「原作はマンガが主流」
 と言われる時代であれば、そこまで映像作品が劣っているような感じがしない。
 これも、人によってとらえ方が違うのだろうが。
「マンガは作家の絵の個性が強く出るので、実写化すると、皆普通の人間なので、個性がないように見える」
 といってもいいだろう。
 しかし、原作が小説であれば、元々絵というものは存在しない。文章からいかに想像するかということだが、かなりの想像力を必要とするだろう。
 そのため、映像作品との開きやギャップは激しいといってもいい。だから、映像作品は、どうしても、原作を想像したという、どこか、
「やり切った感」
 があるのは、間違いないことであろう。
 ただ、電子音をテーマにした作品は、後から聞いた話だったのだが、あの作品には原作者はおらず、いわゆる、
「脚本家のオリジナル書下ろし」
 だったという。
 しかも、トリックに関しては、音声スタッフの話から発想を得たということだった。
 音声スタッフも、まさか、自分の一言がサスペンスドラマのネタになるとは思っていなかっただろう。
 その頃の二時間ドラマは、脚本家のオリジナル書下ろしも結構あったようで、この時のように、スタッフなどからの情報が、作品を完成させる十分な力になっているようだった。
 この時の電子音のトリックというのが、家の呼び鈴を使ったもので、本当は鳴らしていないのに、他の場所で鳴らしたという、時間差トリックに似たものだった。
 これも、錯覚を利用したトリックだといってもいいだろう。
 さすが、音声スタッフがヒントを出しただけのことはある。ある程度、そのスタッフに、電子音についてのことも聞いただろうし、いろいろ調べもしただろう。
 当時は、ネットで調べるということが、やっと浸透してきた頃ではなかっただろうか?
 それだけに、ネットでいろいろ調べ始めると、本を読まなくなったり、手間暇をかけるということをしなくなったりするだろう。
 本当は、ネットだけではなく、ネットには載っていない文献などが、図書館にあったりするので、そちらも並行して調べないといけなかったりするだろう。
 特にミステリーなどのシナリオを書いたりする人は、一般大衆、つまり不特定多数が、視聴者なので、
「ウソを書くわけにはいかない」
 というものだ。
 小説などで、実際に難しいのは、歴史小説などがそうではないだろうか?
 小説の中で、
「歴史小説」
 というものと、
「時代小説」
 というものがあるが、その違いを果たしてどれだけの人が分かっているというのだろう?
 基本的に、歴史小説というのは、史実に基づいたものであること、登場人物はもちろんのこと、主従関係であったり、何よりも、時代考証が間違っていれば許されることではあい。
 そういう意味で、ノンフィクションに近いフィクションが、歴史小説なのだ。
 時代小説というのは、逆にフィクションである。主従関係が狂っていてもかまわないし、いわゆる、先述の、
「パラレルワールド」
 であっても言いわけだ。
 と言いながらも、基本的には史実に則って書かないと、読んでいる人に伝わらない。すべてをウソで塗り固めるというやり方もありなのかも知れないが、それは、実に勇気のいることではないだろうか?
 歴史というものに、
「もしもというのは、ありえない」
 と言われる。
 なぜなら、もしも、その時に歴史が変わってしまえば、すべての背景が変わってしまうということで、それこそ別の世界に飛び出すことになる。小説であれば、どこまでが本当でどこまでが、架空の話なのかが分からなくなると、下手をすると、読んでいて、おもしろくないと思われるかも知れない。
 歴史をまったく知らない人なら、まったくのフィクションで見ることができるが、なまじ歴史を知っている人は、
「俺は博学なんだ」
作品名:五感の研究と某国 作家名:森本晃次