最後のオンナ
「俺は、天才ではないだろうか?」
と、勘違いする人もいるだろう。
「芸術というのは難しいので、俺にできるわけはない」
と思っている人が多い中、逆に言えば、そう思うから、誰も手を出さないのだ。
手を出してしまうと、スタートラインまでは誰でも行けるといってもいいのだから、そこまで行けたことで、それをスタートラインではなく、半分くらいまでは行けているという勘違いをしている人が多いのだ。
だから、おかしな商売に騙されたりもする。
以前、出版業界にて、
「自費出版業界」
というものが流行ったことがあった。
それは、
「本を出しませんか?」
という触れ込みで、原稿を募り、
「必ず、あなたの原稿を拝見し、批評とともにお返しします。そこで、作品の完成度によって、こちらから、出版のご意思のある方には、そおプランを見積もりにして、ご提案いたします」
というものであった。
20世紀くらいまでは、
「作家になりたい」
あるいは、
「本を出したい」
という人の敷居というと、有名出版社の新人賞や文学賞に入選するしかなかった。
しかも、入選しても生き残れるのは、ごく一部、入選するまでに気力を使い果たして、本来なら、ここからの次回作が重要なのに、ぱったりと書けなくなるという人が多かったのだ。
そういう意味で、小説家になるには、本当に狭い門であった。
もちろん、小説家に限らず、マンガ家であったり、画家などの、芸術関係一般に言えることだった。
さらに、他の方法としては、
「原稿を直接、出版社に持って行って、編集者に見てもらう」
という、持ち込みという方法であった。
しかし、持ち込みに関しては、ハッキリいうと、まったくどうにもならない。原稿を持って行っても、相手は受け取ってくれるであろう。しかし、原稿を受け取って、持ち込み者の姿が見えなくなると、秒でゴミ箱行きだ。
しかも、編集者の表情は、困惑以外の何者でもなく、恨めしそうに、
「この無駄な時間を返せ」
とでも言っているかのようだった。
つまり、編集者は、
「俺は、他のプロの先生や、部下の指揮、そして、自分の仕事と忙しいんだ。素人の遊びにつき合っている暇なんかないんだ」
と言わんばかりである。
つまり、持ち込みというのは、見てもくれないということだ。
自費出版社の連中は、実にうまい。それを分かっているから、
「応募原稿には批評を書いて送り返します」
と書いてあるのだ。
そして、実際に批評が乗っていると、送った方は安心する。
「ちゃんと見てくれたんだ」
ということである。
「見てくれたということは、見積もりも正確なはずだ」
と思う。何しろ、相手の批評が、うまいからだった。
最初に、残念なところを並べる。もちろん、言葉は、最期に、
「残念」
という言葉をつづり、決して相手にショックを与えない。
そして、批判をしたうえで、
「あなたの作品の素晴らしいところは」
といって、いいところを並び立てる。
これには、二つの利点がある。
最初に悪いことを書いているのだから、後半の良いことしか書かれていないので、読んだ本人は、いい気持ちで読み終わることができる。しかも、批判があったということは、
「いいところばかりを書こうというあざとい意識がない」
7ということになるので、相手に安心感を与える。
疑う余地を与えないということだ。
そして、もう一つは、相手の読解力の深さを感じさせることだ。
そして、褒める時には、こちらの心境を想像して描いてくれるので、批評というものが、
「痒いところに手が届く」
という、素晴らしい内容のものになっているのだ。
だから、送った人は、その人を信用する。そして、そんな人を雇っている会社なのだからといって。会社を信用するのだ。
だから、その後、少々、
「おかしいな」
と思うようなことを言っても、おかしな気分にはならないだろう。
それがm自費出版社関係の会社の、
「あざといところ」
であった。
しかも、小説を書くというっことが大変であるのを分かってくれる相手、つまり執筆が、どれほど孤独なものなのかということを、今まで一人でしてきたのだ。
街のカフェなどで、小説を書いていても、パソコンを広げている人は、少々いるが、そのほとんどは、仕事に勤しんでいて、小説を書いているという人はいない。
何よりも、自分のまわりには一人もいたこともなく、見たこともないのだ。
だが、それなのに、自費出版会社が、年に一度くらい、コンテストと称して、原稿を募集することが結構ある。
今まであった、有名出版社の新人賞などへの原稿応募数というと、数百くらいだ。
それも、500になることもない。
それなのに、自費出版関係は、桁が違う。
いつも5000件は超えているのだ。
確かに、応募規定はそんなに厳しくもないし、多重投稿もかなわないし、さらには、サイトで公開している作品もいいという。
かなりの数の応募があるのは、想像できるが、それにしても、桁が違うというのは、想像を逸脱しているのではないだろうか?
そんなことを考えると、応募数がどれほど多いのか、想像を絶するという。
しかし、逆にそれだけ競争率は高い。
しかも、結果発表の後、
「あなたの作品は、もう少しで入選だった」
などと言って。出版社と共同出資という形での本の製作を言ってくるのだ。
だから、皆その言葉に載せられて、本を作る人が多い。
詐欺商法
カラクリとしては、本を作る金はすべて、著者持ちであろう。ただ、作っても、流通ができるわけではないので、出資者からだまし取った金は、自分たちの、
「自転車操業」
として使われる。
彼らは、会員。つまり、本を出したいという人が増えなければ成り立たない。つまりそれを募集するための、広告宣伝費にかなりのお金がかかり、さらに、彼らをその気にさせるための、営業テックニックと、批評が書けるという、文章能力の両方を持った人を雇わなければいけない。
ということは、その人件費もバカにはならないというわけだ。
そして、問題として、本を作ったあと、営業活動などしないのだから、在庫になるわけである。その費用も掛かるというものだ。
「自分で出して作った本が、一生日の目を見ることもなく、結局倉庫で埋もれることになるのだが、その維持費を自分たちが出すことになるのだ」
それを考えると、実に情けないといってもいい。
まるで、ヘビが自分の身体を尻尾から飲み込んでいっているようなものではないだろうか?
そんなことを考えていると、あれだけの本を出した人がいるのだ。その中で、
「何かおかしい」
と思う人だってたくさんいるだろう。
実際にそう思ったことで、いろいろ調べてみて、結局本が在庫となって埋もれていることを知ると、そこで裁判になるのだ。
「一定期間、有名書店に置く」
という触れ込みが行われていないという、
「契約違反」
になるからだ。
そのことを分かっているので、出版社は、何も言えない。裁判になると、出版社側は不利になる。
そのうち、このことが、社会問題になると、致命的だ。