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最後のオンナ

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 と感じることであった。
 立場的に自分よりも強いものに対して逆らうことは、覚悟さえ決めてしまえば、何とかなるものなのかも知れない。
 しかし、抗うというのは、
「肉体的に耐えられない」
 ということであり、それは、何も嫌なことだけではなく、自分に襲ってくる快感を避けることができない場合にも言えるのだった。
 つまり、それが、性的欲求であり、我慢できるかできないかというのは、逆に自分が抗えるか抗えないかということになり、それは、自分の中である程度分かっていることではないだろうか?
 性的欲求を我慢できないのは、あくまでも本能であり、しかも、満たされてしまうと、その後に残るのは、
「賢者モード」
 である、
 賢者モードというのは、男性にしかないものだ。
 女性の場合は、絶頂に至れば、その瞬間は、我に返るものだというが、その我に返っている時間というのは極めて短く、また欲求がこみあげてくる。
 ただ、その間に、
「満たされたい」
 という気持ちが強いのか、男性にしがみついたり、優しくされたいという感情も、最高潮になるのだろう。
 しかし、男性は逆で、絶頂に至ってしまうと、そこから先、また欲求がよみがえってくるまでには、かなりの時間が掛かる。正直、シンボルが、役に立たなくなってしまっているのだ。
 しかも、精神的にも、身体に襲ってきたと同じけだるさが漂っていて、罪悪感と、自己嫌悪に包まれる。それを、
「賢者モード」
 というのだが、悪いことに、身体が敏感になりすぎて、相手と密着していれば、
「気持ち悪い」
 とまで思ってしまうのだ。
 よく昔のドラマなどで、ラブホテルに男女がいて、愛し合った後の瞬間、オンナが男にしがみついているが、男は仰向けになって、タバコを吸っているが、オンナに触ろうともしない。
 会話も差しさわりのないようなもので、
「ただ、時間が過ぎればいい」
 とばかりに、
「たった、数分で、男ってこんな風になってしまうのか?」
 と感じたが、すぐに、
「これはドラマで、この男だけのことなんだ」
 と思ったのか、どうか、今から思い出しても、その時の感情は分かったものではない。
 勝沢は、就職してからすぐくらいの頃、
「風俗に嵌っているということを、会社の人に知られないようにしないといけない」
 という気持ちから、
「なるべく回数を減らすようにしよう」
 と考えた。
 そおために、風俗に行っていた回数分、会社の近くのビジネスホテルに泊まることにしたのだ、
 それは、癒しになるからということであり、特にそのビジネスホテルは、温泉が出ることで、ちまたでは有名だった。
 だが、平日であっても、そこまで満室になることはなかった。その日の予約でも、十分余裕で取ることができるし、ダブルベッドの広さで、くつろぐこともできた。部屋では、サニタリー関係はそれぞれ独立していて、ユニットバスになっていないところがありがたかったのだ。
 部屋で風呂を使うことはなかったが、トイレに入ったり、洗面所に風呂屋トイレが見えるのは、非常に気持ちの悪いものだった。
 月に一度くらいは、利用していた。
「どこか、旅行にでもいけばいいのに」
 という人もいるだろうが、そこまでは考えていない。
 旅行に出かけてしまうと、行き帰りだけで疲れてしまい、せっかく、旅先での疲れを癒した分が、却って疲れとして溜まってしまう」
 と感じたのだ。
 それは、元々、性欲を発散させるという趣旨での癒しを求める分には、マイナス効果であった。
「疲れを癒すという言葉は二つの意味があり、疲れを解消するというのと、癒すという似た意味ではあるが、それぞれに満足させるためには、少なくとも、疲れを残してはいけない」
 という思いがあったのだ。
 だからこそ、疲れが禁物の中で、疲れてしまうであろう遠出は、選択肢になかったといってもいい。
 そういう意味で、ビジネスホテルにある温泉であるが、この温泉にも、入る回数は決めていた。
 本当であれば、
「何度でも入りたい」
 と思うのが実情だろうが、
「夜は2回まで、そして、早朝は一度きり」
 と決めていた。
 温泉は確かに癒し効果や、疲れをとるという意味で効果はあるのだが、何度も入ると、身体がふやけてしまうというのか、却って疲れが溜まってしまうという、
 夜は、到着してから、すぐに入るという、
「疲れを癒す」
 という意味での入浴、そして、2回目は、
「ぐっすり眠るための、安眠効果」
 として、適度な疲れやだるさを身にまとうことで、心地よい睡眠に入ろうという気持ちだったのだ。
 その間に、最初は疲れを癒すという意味で、部屋でボーっとしながらテレビと見ていたりしたが、まだ、20代前半の頃のバイタリティからは、それで満足できるほどではなかった。
「これでは、却って欲求不満が溜まってしまう」
 ということで考えたのが、絵を描くということだった。
 絵を描くといっても、そんな大げさなものではない、スケッチブックに、ネットなどで見た画像を自分なりに描いてみるというだけのちょっとした趣味であった。
 前から絵を描きたいという思いがあるのは事実だったが、実際にやってみると、
「見るに堪えない絵だ」
 と自分で思うのだから、やる気にもなるものではなかった。
 しかし、実際にやってみると、前にやってみたいと思った、ちょうど3年くらい前に描いた絵に比べれば、少なくとも自分で納得できるくらいの絵になっていたことに、自分ですらビックリしていた。
「俺にこんな絵が描けるなんて」
 と正直感じたのだが、描けるようになったのは、
「遠近感が自分なりに捉えられるようになったからだな」
 と感じた。
 最初にどこから描き始めるかというのは、別に問題ではなく、その時に描いた一部分が、自分が描こうと思っているスケッチブックの広さにマッチしていれば、それでいいのだった。
 つまり、
「最初にどこから描くかということが大切なのではなく、最初に筆を落とした部分が、キチンと枠に嵌るかどうかを自分が判断できるか?」
 ということである。
 それができるかできないかで、絵が描けるか描けないかが決まってくるのだ。
 もし、それができるようになれば、自分の中で、
「遠近感を掴むことができたのだ」
 と感じることだろう。
 それを感じることができると、
「絵というものが、だんだん上手になるステップなのだ」
 と思っている。
 もちろん、途中にいくつも節目があるが、芸術というものは、
「これから自分が、どんどん先に進んでいけるというものになるだろう」
 と考えられる。
 だから、絵を描くだけではなく、文章にしても、音楽にしても、結構、先に進むことができるのだろうと思うのだった。
 そして、それが、
「俺はスタートラインに立つことができたのだ」
 と、言えるところまではきているに違いない。
 しかし、問題はそこからだ。
 まったくの未知数の段階で、それまで、スムーズに上達してきたので、
「これからも、上達の一方だ」
 と考えているのだろうが、なかなかそうもいかない。
 つまり、スタートラインに立つまでは、誰にでもできることであり、そのために、
作品名:最後のオンナ 作家名:森本晃次