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最後のオンナ

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 だから、人に嫌われることはないが、何かあった時、助けてくれることもない。だが、それも勝沢が自分の選んだ道と思っていた。
 どうせ、人に気を遣って、自分を犠牲にして他人のために何かをしても、しょせん、
「相手に見返りを求めるというのは、褒められたことではない」
 と言われるのだ。
 そんなことは分かり切っていることであり、当たり前だ。だからと言って、
「じゃあ、どうして皆人に気を遣うのだ?」
 と聞いて、何と答えるだろう?
 答えようがないではないか? 見返りがないのだから、
「人のために何かをすると、いずれは、自分にいいことが返ってくる」
 と答えたとして、
「じゃあ、それって、言葉を変えただけの見返りではないのか?」
 というと、果たして、諭そうとしている人は、その後の言葉が続くだろうか?
 たった一言で、すべてが決まってしまい、いい返すことができなくなってしまう。
「結局、世の中、何かの見返りを求めることが前提なんだよね? だって契約だって、売買だって、すべて、こちらかのアクションが見返りとなって返ってくるわけではないか。そうじゃないと、どちらかの立場が強くなり、差別や支配、さらには、拘束と言ったことに関わってくる。一歩間違えれば、犯罪に絡んでくるのではないだろうか?」
 というと、それこそ、相手はぐうの音もでない。
「そんな屁理屈を言われても」
 と相手はいうだろうが、
「屁理屈」
 という言葉、結局は、言い訳にもならない、相手からすれば、
「ギブアップ」
 とでも言っているかのようである。
「三すくみ」
 ということと、
「他人事」
 ということ、それぞれに、相反するものではあるが、苛めの際の、傍観者が、三すくみの一角を担っているのだとすれば、ここに、一つの矛盾が出る。
「三すくみの一角を担っているのに、それが、相反するものだということで考えてみると、傍観者における第三者という考えと、三すくみから離れた、相反するものとしての第三者としては、それぞれに、種類が違うのではないか?」
 といえるのだろう、
 それを考えてみると、
「三すくみというのも、がっちりとスクラムを組んでいる時はいいのだが、どこかのバランスを崩したり、三すくみに見えていたが、時間が経つにつれて、力の均衡が崩れてきて、結局、お互いのバランスが保てなくなり、三すくみではなくなる場合があるのではないか?」
 と考えられる。
 つまり、そこには、自然界の
「生態系という理論」
 が崩れていくということになるのではないだろうか?
 それを考えると、勝沢は、
「俺の他人事という考えは、三すくみの中の、一角とも、三すくみに対しての相反するというものとも、違っているのではないか?」
 と考えるのであった。
 自分を、
「他人事」
 と考えるということは、
「自分は自分だ」
 ということであり、少なくとも、模倣であったり、人まねというのを毛嫌いするようになるといってお過言ではないだろう。
 確かにその通り、何といっても、
「自分は自分だ」
 という考えは、ある意味楽であった。
 なぜなら、一番つぶしが利くし、言い訳のように聞こえにくい言い訳がいくらでも使えるからだった。
 一つ言えることは、
「皆が、自分は自分だと思っているのではないか?」
 と考えられることだ。
 本当は、その考えに乗っかりたいのに、それができないのは、社会的な立場や地位が邪魔しているのだ。
 特に社会の歯車の一部として生きていると思っている人にとって、波風を立てることは一番のタブーだと思っていて、そのタブーを犯すことは、自分が、
「社会の歯車でしか生きることができない」
 と、自覚することで生きていくことを、自分なりに覚悟しているはずなのに、その覚悟を覆すものとなるからだった。
 特に社会の中で、雁字搦めで生きていかなければいけないことを自覚し、覚悟をしたと思っている人は、最初に立てた戒律は、死んでも守ろうとするだろう。
 自分の覚悟を自らで崩すということは、これから生きていくうえで、一度自分で自分を裏切ってしまったということになるからだ。
 そのことを自分で分かってしまうと。
「最初から、一度でも裏切ることはできない」
 という、戒律に縛られてしまうことになる。
 逆にいえば、
「戒律が一度でも破られると楽になった気分になり、そのため、よく言われる、『悪魔のささやき』なるものが、耳元で聞こえてきて、そこから逃れられなくなる」
 というものだ。
 人間、楽な方に進んでしまうと、楽なこと以外は考えられなくなり、それが自分を追い詰めることになると言われる。
 そういう意味で、
「自分は自分」
 という考えは、楽なのかも知れないが、じゃあ、まわりの人に合わせて、自分から何も考えないような人間というのは、どうなのだろう?
 まわりに合わせるということは、自分の考えを持たないということと、同意語である。
 そんな自分が嫌で、許せない気持ちになるというのは、誰もが思っていることだろう。
 しかし、この世知辛い世の中を生きていくには、自分を殺してでも、人に靡かなければいけなくなるだろう。
 だが、それだけではダメだということで、昔からテレビドラマというと、
「アウトロー」
 であったり、
「人と同じではダメだ」
 といっている人が主人公になっている。
 特に、
「世の中の大きな仕組みに逆らう」
 などという、官僚だったり、政府という大きな組織に立ち向かう、いわゆる。
「ノンキャリ」
 と言われる人間の活躍が、目を見張っているのである。
 そんな世界を、今のキャリアも分かっているのだろう、
「しかし、自分が生き残るためには、偉くなるしかない」
 ということで、世の中に逆らおうとする。
「抗う」
 という言葉もあるが、これはきっと、逆らった中で、実際に、逆らえている場合に使う言葉ではないか?
 実際には、
「逆らうというのは、自分が悪いことの方が多い場合で、抗うというのは、権力関係上、こちらが弱いのは分かり切っているが、それを自分で何とかしようと思うことである。つまりは、逆らっているのではなく、抗っていると言った方が正解なのかも知れない」
 といえるのだった。
 彼は、
「抗うというのは、逆らうことの延長だ」
 と思っていた。
 逆らうというのは、
「自分から、自分の抵抗勢力のようなものに抵抗することで、社会勢力のようなものが相手なので、見方によっては、こちらが悪い」
 というように見られてしまうことが多い。
 しかし、抗うというのは、どちらかというと、肉体的なことに対しての感情をいうのではないだろうか?
 相手に逆らうことで、そのうちに、逆らうことが、自分の中でマヒしてきたり、あるいは、逆らうということが、まるで自分の生きる意味のように感じられると、まるで、子供の頃の反抗期を思い出してくる。
 子供の頃には分からなかった、
「相手に逆らうことが快感だ」
 という思いが自分の中で芽生えてくると、それが抗うということになるのだろう。
 抗うというのは、相手が自分よりも立場的に強いか弱いかなどということは関係ない。
「自分が、逆らえないことが起こるかも知れない」
作品名:最後のオンナ 作家名:森本晃次