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最後のオンナ

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「だから親子なのではないか?」
 といえるのだろう。
 しかし、逆に親子だから、親がわざとであったり、あざといことをいうのであれば、見ていると分かるというものだ。
 つまり、子供を諭しているわけではなく、完全に怒っているのだ。ヒステリーで声の高さも、1オクターブくらい高くなっていて、自分でも制御することができないのではないかと思う程に、怒っているのだ。
 それこそ、親子でなくとも分かるというものだ。
 だから、まわりの親が子供を叱りつけているのを見ていて、
「見るに堪えない」
 と感じることがある。
 それが、ヒステリーに身を任せて、怒っている様子だからだ。
 その人の顔を見ようとはしない。見てしまうと、血管が今にもキレそうなそんな表情を見ていると、そんな表情を見たことで、気分が悪くなってしまったのは、見ようと思った自分に責任があるとして、自分を責めてしまうことが分かるから、それが嫌だったのだ。
 そんなことを考えていると、子供の頃、自分は二重人格だったということを思い出させる。
 まずは、自分が、
「天邪鬼だ」
 ということに気づいてから、それほど時間が経ったわけではないのに、今度は、
「二重人格ではないか?」
 と感じた。
 その頃は二重人格という言葉は聴いたことがあったが、躁鬱症という言葉は知らなかった。
 中学に入り、思春期や反抗期に突入することで、いろいろな言葉がまわりから入ってくるようになった。
「躁鬱症」
 などと言う言葉もその一つで、いろいろな言葉が入ってはくるが、自分の中にあるものでなければ、その時は忘れてしまうだろう、
 そして、時間が経ってから、似たような症状が出てくると、
「確か、昔似たような話を聞いたことがあったな」
 といって、すぐにはいつだったのか思い出せないが、思い出してみると、それがいつも決まって、思春期の頃だったということに気づいて、
「ハッ」
 とした気分にさせられるのだった。
 そんな勝沢が、最初に躁鬱症を感じたのは、いつだっただろう?
 ハッキリと覚えているのは、大学2年生の頃であっただろうか?
 大学生ともなると、高校時代までの暗かった自分とは正反対の自分を出そうとして、一年生の頃は、必死になって友達を作ろうとした。
 別に、
「心を通じ合えるような親友」
 というわけではない、
 とにかく、
「その他大勢でもいいから、たくさん友達がほしい」
 というものであった。
 挨拶程度の友達なら、いくらでもできた。何と言っても大学というところ、そういう友達がほしいと思っている人は山ほどいるので、利害が一致しているといってもいいだろう。そんな思いを感じていると、まるで心が通じ合ったように思えてくるから不思議で、
「俺とこいつは、まるで運命のように同じことを感じているのではないか?」
 と思うくらいだった。
 ただ、同じようなことを思っているのは本当のことで、それは、楽な方に進もうとした人間が皆感じることだったのだ。
 だから、
「俺とお前は気が合うな」
 と言ったところで、気が合っているわけではなく、
「同じ性質だ」
 というだけのことだったのだ。
 性質が同じということは、動物の世界では、
「同類」
 という言葉で片付けていいのではないだろうか?
 大学生というのは、どこか、動物的な感性があるような気がしている。
 それは、本能というのか、本性というのか、曝け出された感情を悪いことだとは思わず、受け入れてしまう感覚。それが、あるのが、大学生だと思っていたのだ。
 だが、それも一年生の時までで、二年生になってくると、少し感覚が違ってくるのを感じた。
 三年生になると、いよいよ専攻学科を専門的に勉強するようになる。そういう意味で、それまでの大学生活とは違い、本当の大学生活が始まるといってもいいだろう。
 もっとも、受験をして大学を目指した時は、最初からその勉強をするためだったはず。それなのに、いまさら覚悟を決めるというものおかしな話で、勉強をすることがどういうことなのか、いまさらのように考えなければいけないというのは、おかしなことであった。
 おかげで、大学二年生の途中くらいから、
「どこか、気分がすぐれない」
 と、どこにあるか分からない理由を考えることになるのだが、その理由は分かることはなかった。
 ただ、自分の中で、
「躁鬱症のようなものが起こっているんだ」
 ということを感じるようになった。
 そもそも、何が躁鬱症なのか、自分でも分からない。
 そう思っていると、しばらく大学に行くことが億劫になり、さらには、表に出ることが億劫になってきたのだった。
 さすがに引きこもりというところまではいかなかった。
 よく引きこもっている人の様子か聞いてみると、真っ暗な部屋で、ゲームに勤しんでいるというイメージがあるのだが、勝沢には、その気持ちがわからなかった。
「ゲームをするだけの根気があるのに、何で表に出ようと思わないのだろう?」
 という気持ちであった。
 勝沢の意識としては、
「引きこもりというと、何をしていいのか分からず、何をするにも億劫になって、やる気も出ないので、部屋に閉じこもっている」
 という感覚だ。
「ゲームができるだけの気持ちがあるのなら、表に出ることくらい簡単なはずなのに」
 と思うのだが、それは勝沢が、
「ゲームが嫌い」
 だからである、
「何が楽しいというのだ?」
 パチンコもスロットもしないので、ゲーム性のあるものは、ほとんど何もしないといってもいい。
 大学の時に、友達とゲームセンターに行ってゲームをしてみたが、何か面白くない。
 確かに、のめり込んでいくような感覚はあったのだが、それ以前に、疲れてきて、頭痛がしたのだ。
「疲れて頭痛がしてくる前に、ゲームに夢中になっていれば、俺もゲームを辞められなくなっていたかも知れないな」
 と思ったが、しょせん、そんな雰囲気が浮かんでこない。
 イメージが湧いてこないのだ。
 湧いてこないイメージというのは、あくまでも、
「自分が興じているところ」
 ということであり、一生懸命にゲームに勤しんでいる自分のイメージが湧いてこないのだった。
 そんなことを考えていると、自分の今のところの趣味はというと、
「風俗遊び」
 であった。
 風俗で遊んでいると、楽しいというよりも、
「毎回のドキドキを楽しみたい」
 と思っていたはずなのに、最近はマンネリ化してきたのを感じた。
 最初に誰かと当たって、気に入った子であれば、その子をオキニとして、何度か指名する。
 1カ月に一回のペースであれば、半年も一緒にいれば、ある程度マンネリ化してくるというものだ。
 中には、3カ月くらいで飽きてくる人もいれば、一年くらいオキニでもいいくらいであった。
 しかし、最近の勝沢は、
「一人の子には最大半年」
 と考えるようになった。
 もちろん、相性が合わないとか、すぐに飽きてしまったというような女の子であれば、その瞬間から次に行くことにしている。
「美人は三日で飽きる」
作品名:最後のオンナ 作家名:森本晃次