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風俗の果て

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 最初の人は、いろいろ助言という名の、文句を言ってはいたが、ちゃんと、してくれることはしてくれた。サービスを尽くしてくれたといってもいい。だから、満足した気持ちで帰ることができたし、思ったよりも、賢者モードが深くなかった。
 しかし、フリーで入った時は、やるだけやって、最後に余韻を残した心地よい時間などなかったことで、余計なストレスになってしまった。
 これは、賢者モードというよりも、罪悪感でもない。そう、自己嫌悪に陥ってしまったのだ。
「こんな中途半端な気持ちになるために、俺はせっかく貯めておいた金を使うことになったのか?」
 もちろん、相手の女が最悪だったのが一番なのだが、そもそも、その日、ムラムラきて、フリーでもしょうがないということで、妥協したのが悪かったのだ。
 ムラムラきてしまった以上、そのまま帰るということはできなかっただろう。当然、他の店だって、客が多く、好みの女を選ぶことは難しかったことだろう。
「フリーを覚悟で、知っている店を選ぶか、空いている好みの女の子を探しに、他の店に赴くか?」
 を考えた時、
「一刻も早く解消したい」
 という思いと、
「いまさら他の、知らない店に行くだけの勇気があるのか?」
 という思い、それらに、自分の感情と性欲を加味して考えると、やはり、フリーであっても、この店で待っている方を選ぶだろう。
 少し怖いというのはあるが、
「ひょっとすると、自分好みの女性が来るかも知れない」
 と感じたのだ。
「女性の好みは人それぞれ」
 というではないか。
 特に、
「ぽっちゃり系の女の子が好きだ」
 と思っているだけに、少々のぽっちゃりであれば、他の人では、耐えられないと思っても、マサムネには、十分許容範囲となるのだった。
 そんなマサムネであるが、フリーでついた女性はまったく逆だった。細身の女性で、いわゆる、今でいうところの
「ちっぱい」
 というやつだった。
 抱きしめてみると、骨が折れそうな華奢な身体に、顔色が悪そうで、年齢表記が21歳とあったが、顔色のせいなのか、とても、二十歳過ぎには見えなかった。
 会話もほとんどなく、無言の中での、いかにも嫌々しているとしか思えないサービスは、気持ちがいいわけもなく、却って、
「自分が悪いのではないか?」
 という自己嫌悪を与える状況に追い込まれてくると、次第に、
「早く時間が過ぎてくれないか?」
 と思うのだった。
 たまに目が合うと、ひきつった笑顔をしている自分が情けなく感じる。
 それは、相手が一切笑っていないからだ。
「こいつは一体何様だ。サービスを受ける立場の俺に気を遣わせて、てめえは、だんまりかよ」
 という怒りに満ちた感覚だった。
 それでも、女はまったくのポーカーフェイスで、何を考えているか分からない。ただ事務的に接してくるだけで、気持ちいいなんて感覚。ないに等しかった。そのうちに、愛想笑いもバカバカしくなってきて、無言の時間が淡々と過ぎていく。
 最後、ブザーが鳴ると、あと5分の知らせだった。シャワーを浴びて、服を着て、後は、
「さよなら」
 であった。
 前の時のブザーは、
「ああ、もう終わりなんだ」
 という、賢者モードとは違った、一抹の寂しさがあったが、今回は賢者モードも、寂しさもない。
 そんなことを感じながら、部屋を出ると、帰り道、激しい後悔に襲われた。一番の強い思いは、
「何で、俺が今、こんなに後悔に打ちひしがれなければいけないのか?」
 ということであった。
 後悔というのは、もちろん、賢者モードにならないほどの思いからであるが、それを思うと、賢者モードというのも悪いことではないと思えてきた。
「賢者モードって、ある意味、スッキリした証拠ではないか?」
 と感じ、
「これこそが、快感の余韻であり、そのおかげで、自己嫌悪に陥らずに済むのかも知れない」
 と感じた。
 賢者モードに陥ると、罪悪感のようなものが残るのだが、それは自己嫌悪とは違う。だから、次第に身体の余韻という安心感が、罪悪感を優しく包み込んで、次第に消えていくものだった。
 しかし、自己嫌悪の場合は、自分に対しての嫌悪なので、そこには、堂々巡りが待っていた。
 自分を戒める気持ちになるのだが、ふと我に返ると、
「何で俺、自分を責めてるんだ?」
 という気持ちになり、そうなると、まだ、振出しに戻ってくるのだ。
 そうなると、また、気持ちが繰り返され、同じところで、また我に返ることになるのであった。
 それが自己嫌悪であり、だから、自己嫌悪には終わりがないのだ。だから、収まったとしても、それは、なくなったわけではなく、細々とくすぶっているだけのことなのだ。
 そう思うと、
「なるべくなら、自己嫌悪に陥りたくない」
 と思うようになった。
 しかし、この自己嫌悪が、発展してくると、そこに待っているものが何であるか、後になって気づくことになる。それが、
「躁鬱症」
 というもので、どうしてそれが、自己嫌悪の延長だということに気づいたのかというと、
「堂々巡りを繰り返しているからだ」
 ということであった。
 鬱状態から躁状態、そして躁状態から鬱状態、と繰り返している。
「どっちが先だったのか?」
 ということを考えると、躁鬱状態に入っていることを途中で気づいたので、どちらが先なのか分からない。
 この発想は、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
 というよりも、どちらかというと、昔漫才であった、
「地下鉄って、どっから入れたんでしょうね?」
 というネタの方がしっくりくるように感じるのは、どういう心境なのだろうか?
 やはり、
「途中で気づくということが、そういうことになるのだろう?」
 と思うのであった。
 躁鬱症の、堂々巡りを考えると、まるで信号機のようなイメージを持つのだ。特に、鬱状態の時に、世界が微妙に違って見える時、夜と昼とで、色が違うのを感じるのだ。
 昼間では、信号機の青は緑に、赤は、橙が混ざったかのように見えるのだが、夜になると、元々の原色がさらに鮮やかに感じられ、昼間のけだるさを、夜の爽快さが補ってくれるのが、鬱状態の時であった。
 そのために、信号機を思い浮かべるのだが、実際には違っているような気がしたのだが、その理屈が最初は分からなかった。
 しかし、分かってみると当たり前のことなのだが、
「よく分かったよな」
 と自分でも関心するほどだったのだ。
 信号機というのは、赤から青に変わる時は、黄色を通すことなく変わるが、青から赤になる時は、黄色を通す。
 それはきっと、
「赤で止まることになるから、黄色では、気を付けて進む」
 ということを示唆しているのではないか? と思っていた。
 しかしそれは大きな間違いで、本当の黄色というのは、
「止まれ」
 というのだという。
 黄色のうちで止まらなければ、赤で止まれないというのが考えのようだが、なるほど、県によっては、赤でも突っ込んでいくところも結構あったりする。
「信号が赤になったって、反対側は、まだ青になってない」
 というのが彼らの理屈であるが、それもそのはず、赤から青になった時、彼らは、すぐには発射しないのだ。
作品名:風俗の果て 作家名:森本晃次