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風俗の果て

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 テストの時も協力してもらえず、友達が一人もいないどころか、まわりから、
「危険人物」
 というレッテルを貼られて、学生生活を楽しむどころか、自分で崩壊させてしまうことになりかねない。
 それが、この時のたった一回を我慢できるかできないかというだけに掛かっているのだ。
 それを思うと、
「俺がどうすればいいのかということを、その時、我慢できるかということにかかっているのだ」
 ということになるのだろう。
「一時の感情に身を任せる」
 というのは、人間にはよくあることだ。
 実際に、
「我慢しようと思えばできたのに、あの時はどうしても我慢できなかった」
 ということが、誰にだって、正直あるはずだ。
 実際に、今から思えば、大学に入るまでにも、我慢できそうなことを我慢できずに失敗したと思ったことが結構あった。
 しかしそれも、
「まだ子供だから」
 あるいは、
「思春期だから」
 ということを免罪符にして、逃げてきたことではないかと思っていた。
 だが、子供だったら許されることも、次第に大人になるにつれて、
「一体、どんな教育を受けてきたんだ?」
 であったり、
「親の顔が見てみたい」
 などと言って、自分よりもまわりの人間のことを悪くいうような風潮が気になるようになり、そういえば、子供の頃、よく親から、
「親の顔に泥を塗るような真似をするんじゃない」
 と言われていたのを思い出した。
 子供の頃は、それを言われるのが一番腹が立ったのだが、そのせいで、親のことを嫌いになった時期があった。
 もちろん、思春期のことで、今はそこまで嫌だとは思っていないが。逆に親のことを嫌いになりかけた時、思い出すのが、このセリフを言われた時だった。
 だから、
「親を嫌いになりたいとき、どうすればいいのかピンとこない時」
 などは、この時のセリフを思い出すようにしている。
 大人と子供の境目というのは、この時の親の言葉にどう感じるかということが、変わってきたのに、本人が気づいた時ではないだろうか?
 それをピンポイントで感じるというのは難しいことなのかも知れないが、果たして、親子の関係は、他の人がいうような、
「子供と大人の関係」
 というものに、当てはめてもいいものかどうか、考えさせられるのであった。
 そんな嫉妬のせいで、自分のことが、いまいちわからなくなっていた。
 ただ、この時の嫉妬は、完全に自分の意識を混乱させるものであり、
「童貞を捨てるチャンス」
 というだけではない、何か大きなものが潜んでいるような気がしたのだ。
 その日、問題の四人がどうなったのか、結局分からなかった。
 それを聴くのは野暮だったし、聴いたところで、成功例を聞かされて、嫌な思いをするのも嫌だった。
 それなら、最初から聞かない方がいいに決まっている。そう思うと、
「聞くも地獄、聞かないも地獄だ」
 としか思えなかった。
 だとすれば、聞かない方がいいに決まっている。
 聞いたところで、メリットどころか、マイナス面が大きいと分かっているのに、聴くようなことはしない。もし聞きたいと思うのであれば、
「好奇心からなのだろうか?」
 としか思えないような気がして、そう思えてくると、自分の心境がどこに行ってしまったのか分からなくなるのだった。
 もし、この時、四人がセックスをしていれば、
「俺にだって、今回のようなチャンスがくれば、その時は」
 と感じることができるが、どうしても嫉妬は残ってしまう。
 かといって、うまくいかなかったと聞かされたら、もう今度のようなことがあって、自分が女を抱けるチャンスがきても、きっと敵わないんだろうな。
 と思うと、嫉妬する意味、いわゆる大義名分がないので、必要以上に、苛立ちを覚える必要もない。
 それなのに、
「聞くも地獄、聞かないのも地獄」
 ってどういうことなのだろうか?
 それほど、今回のことは、マサムネにとって、ショッキングなことだったというべきなのか。
 確かに、童貞を捨てることができるチャンスだったのかも知れないが、確かに、こんなことで捨てたとして、自分の納得できることなのだろうか?
 ただ、これが自分のためにもしなるのだとすれば、それは自己満足なのではないだろうか?
 つまり、自分のような童貞君がいて、その人に対して、自分の今回のような経験談をした時に、相手は、
「この人はすごい童貞喪失をしたんだ」
 ということで、センセーショナルな目で自分を見てくれるのではないか?
 という思いに駆られることで、マウントが取れると考えたのではないだろうか?
 そんなことを考えると、
「なんてくだらない自尊心のために、こんなやきもきした思いを抱いているのであろうか?」
 と考えさせられてしまった。
 要するに、この時の損得というのは、あくまでも、自分がその時に考えられる範囲でしかないのだ。
 そんなことは当たり前のことであり、誰が考えたって当たり前のことである。
 それを考えると、
「俺はなんて、ちっちゃな男なんだ」
 と感じたが、ただ、嫉妬心を抱いたということは、時間が経てば経つほど忘れ去っていくものではなく、逆に膨れ上がってくるもののようだ。
 その理由としては
「正解が分からない」
 ということになるのだろう。
 そもそも、
「何が正解なのか?」
 ということがまったく分からない。
 正解を求めるというよりも、自分が納得できることが正解であるならば、求めている正解とは、まったく違ったものであるということが分かる気がする。
 それを考えると、
「あの時に感じた嫉妬心というのは、他の人が感じる嫉妬心と言われるものと同じなのだろうか?」
 と感じた。
 というのも、
「何か一つのことを感じるのだって、人それぞれで、人の数だけ感情があってもいいのではないか?」
 と感じるのだった。
 だから、嫉妬と一口に言っても、感じ方が人それぞれではないかと思うのだ。
 例えば、嫉妬心が、
「自分に近いものなのか?」
 あるいは、
「相手に近いものなのか?」
 ということである。
 つまり、自分が、相手は関係なく、相手が誰であれ、同じような嫉妬をいつも感じるという、どちらかというと、
「自分中心」
 の嫉妬の感じ方であり、逆に、自分が嫉妬を感じる相手をどれだけ愛しているかによって決まるものである。
 ただ、この二つを考えると、結末も変わってくる。
 相手が、もし、
「これは浮気であって、本当に愛しているのはお前だけだ」
 と言われて、コロッとその言葉に騙されるのは、自分中心の嫉妬を抱く人ではないだろうか。
 そうでなければ、浮気をしたという事実だけで、相手のことを許せる許せないというのは、相手の感情に左右されないのではないかと思うのだった。
 そういう意味で、純情な嫉妬心というと、前者になるのだろうが、嫉妬心を相手の言葉でコロコロ変わるということになれば、本当に自分中心の嫉妬を考える人であれば、許せないと思うだろう。
 いや、浮気をした相手の言葉に騙されるのは、
「自分中心の嫉妬であってほしい」
 という気持ちの表れなのかも知れない。
 マサムネは、大学三年生の時に、初めて本格的な付き合い方をした。
作品名:風俗の果て 作家名:森本晃次