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多元的二重人格の話

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「ゼロからマイナスになるか、それとも、ゼロに限りなく近い状態で、ゼロにすらならないか?」
 ということになるのである。
 フレーム問題は、そんな加算法の無限というものと、さらには、可能性というものを組みわせたもののように思えるが、考えてみれば、
「可能性」
 というものは、元々無限なのだ。
 それを、ロボットは、
「起こりえることすべてが、可能性」
 だと判断し、人間は、
「起こりえることの中で、考えられることだけを選び出したものが、可能性だと思うだろう」
 つまり、考えられることというのは、その言葉の上に、
「人間が考えて」
 ということになるのだろうが、逆に言えば、
「考えることができるのは、人間しかいない」
 ということであり、この考えがある以上、
「人間と同等、あるいは、人間以上のものをロボットに求めることは、人間としての、矛盾と追求するものだ」
 といえるのではないだろうか?
 これは、神話の世界にも言えることなのか?
 今度は逆に、
「人間が、神というものをソウゾウする」
 という考え方に立っている。
 基本的に、神は人間よりも上であり、何と言っても、創造主であるのだから、前述のように、創造主である神が、創造物である人間よりも上でなければ、理屈に合わないだろう。
 実際に、人間は神を、
「想像することはできても、創造することはできないのだ」
 ただ、ここで、いじわるな発想をするとすれば、
「人間は、神が作ったということであれば、それはそれでいいだろう。しかし、神は一体誰が作ったというのだろう?」
 ということになってくる。
 この考えは、まるで、昔の漫才のネタにあったような、
「地下鉄って、どっから入れたんでしょうね?」
 という発想に行き着くのではないだろうか?
 それを考えてみると、またさらに、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
 という発想にもなってくる。
 これも、ある意味、
「無限×無限」
 という発想と似たものがあるのではないだろうか?
 本当は先があるのかも知れないが、それを敢えて考えないようにするのは、そこから先、いくら考えても答えに行き着くことはないという発想からではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「さらに、可能性と無限という言葉の結びつきが深い」
 と思えてくるのだった。
「フレーム問題とは、ロボットにも、人間と同じように、「考えて」絞ることのできる可能性を考える力を備え付けることが大切なのだ。ということは、何かの可能性をすべて、パターンとして覚えこませておけば、そのパターごとに考えればいいように組めばいいだけではないか?」
 ということであった。
 しかし、普通に考えると、それは、無理な話であって、そもそもが、
「無限というものから、除算法で、パターン化したとしても、そのパターンだって、無限にある」
 というわけなので、絞ることはできないのだ。
 それが、
「この瞬間の次の瞬間が、無限×無限」
 という発想になるのと同じで、しかも、先ほどの発想の通り、
「可能性はつまりは、無限ということだ」
 という考えに合致してしまうのだ。
 普通であれば、話はここで終わってしまうのだが、
「可能性を限りあるものだと考えれば、果たして、無限にある考え方を、分割できるのだるか?」
 といえるだろう。
 しかし、それこそ無理な話で、
「無限というものは、何で割ったとしても、無限でしかない」
 ということなのだ。
 普通算数だったら、同じものから同じものを割れば、答えは1のはずなのだが、無限だけはそうとは限らない。
 無限から無限を割れば、そこに出てくる答えは、やはり無限なのだ。
 これは、
「無限というものが、一つではない」
 という発想からくるもので、前述のマルチバース理論のように、
「宇宙は無数の宇宙からできている」
 という発想で、その数は?
 というと、
「10の500乗にあたる」
 つまりは、無限といってもいい。
「限りなく無限に近い」
 というものだ。
 そもそも、無限というのは、ひょっとすると、限界のあるものなのかも知れない。
 しかし、それを証明することが困難な場合や、人間の想像をはるかに終える場合など、便宜的に、
「無限」
 という言葉を使っているのだろう。
 そう考えると、無限には、本当に無限に種類があるという考え方のできるわけで、それが、フレーム問題を、解決できないものとしているのだ。
「フレーム問題」
 というのは、神の領域だと言えるのではないだろうか?
 人間とは都合のいいもので、自分たちの頭で解決できないことを、いかにも存在するものとしての、神を創造し、そこで理解できているかのように洗脳する。それこそが、宗教というものではないだろうか?
「人間の頭で解決できないことは存在しえない」
 という傲慢さが、人間を、
「無限地獄に叩き落し、その解決方法として、神なるものを作り出し、人間を創造したことにしてしまえば、神の領域に入り込むことをタブーとすることで、自分たちの言い訳を神に押し付けることができる」
 という考えは、かなり強引ではあるが、
「いかにも人間らしい考えだ」
 といえるのではないだろうか?
 そしてロボット開発で問題なのは、
「ロボット工学三原則」
 と言われるものだ。
 これは、工学者が考えたものではなく、元々は、
「ミステリー作家の、自小説の中でのネタ」
 であったのだ。
 元々は、以前からあった、
「フランケンシュタイン症候群」
 と呼ばれる考え方で、
 これは、
「ジキルとハンド」
 にも言えることであるが、
「理想の人間を作ろうとして、怪物を作ってしまった博士の話」
 である。
 ジキルとハイドも、もしジキル博士がハイド氏の本当の恐ろしさを知らなかったとすれば、不可抗力で作ったことになる。そうなると、これも一種の、
「フランケンシュタイン症候群」
 の一種になるのだろう。
 ただ、ジキル博士が知らなかったということは、正直考えにくい気がする。
「ジキル博士が、ハイド氏の存在を分かっていてこそ、この話は辻褄が合っているのだ」
 といえるのではないだろうか?
 フランケンシュタインというのは、ある博士が作ろうとした、一種のロボットのようなもので、人間を支配したり、人間を壊すということを覚えてしまったことで、人間の敵になってしまった。
 そもそもが、
「生身の人間にできないことを代替えしてもらおう」
 というロボット的な発想から生まれたという。
 いかにも人間の発想らしいものからの誕生で、なまじ力が強く、凶暴なので、創造主である人間が、相手に負えないということになってしまったのだ。
 だが、この発想は、逆に人間が、
「神の領域を犯した」
 という発想に行き着くのかも知れない。
 つまり、聖書の中に出てきた、
「バベルの塔」
 の発想である。
「ニムロデ王は、神に近づくために、バベルの塔を、配下に作らせ、そして、ある程度までできたところで、天に向かって矢を射った。どのようなつもりなのか分からないが、神からすれば、人間ごときがと思ったに違いない」
作品名:多元的二重人格の話 作家名:森本晃次