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多元的二重人格の話

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 ジキル博士が、ハイド氏の存在に気づいたのにはドッペルゲンガーの発想がなかったら、無理だったのではないだろうか?
「もう一人の自分」
 という存在を、自分の中に感じ、そして、自分の身体以外で、表に出てくるということを考えるのは、かなりの無理がある。
 しかも、その間、自分は覚醒することができず、眠っているしかないのだ。
 ということは、その間に相手が何をするのか分からない。同じことが自分だけではなく、他の人に起こっているのかも知れない。
 以前、テレビのオカルトドラマで、
「五分前を生きている」
 という女性の話があったのを思い出した。
 五分前の女は、主人公の女が好きになった男を物色していた。明らかに誘惑しているのだ。
 そして、その女はそのためだけに、表に出てきた。
 表に出てくるということは、自分の寿命を減らしていることに繋がるのを、分かっての上であった。
 だから、他の人にもう一人の自分がいても、決して出てこない。その存在すら隠そうと必死でしているのだ。
 この発想は、
「ジキルとハイド」
 の話に直結している。
 やはり、ジキルとハイドの話は、ドッペルゲンガーの話とは切っても切り離せない関係にあるのだろう。
 そして、この
「五分前の女」
 の話も、ドッペルゲンガーの話であり、ジキルとハイドの話の変形のようなものだといってもいいのではないだろうか?
 それぞれに共通点もあり、共通しない部分は絶えず表に入る部分で、それは、ジキル博士であり、五分前の女では、主人公の女性の個性なのではないだろうか。
 そもそも、どちらも、見た目の性格はまったく違っているのだから。
 それを考えると、
「見た目の性格の裏に、切り離せない深い結びつきの性格が潜んでいるのではないだろうか?」
 といえる考えもあっていいだろう。
 そんな、
「ドッペルゲンガー」
「ジキルとハイド」
「五分前の女」
 とそれぞれの逸話を並べて考えると、その共通点が、人間の生きていくうえで、切っても切り離せない何かを形成しているといってもいいのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、他に何か、別の意味での引き合うものがありそうな気がした。
 それを感じたのは、偶然であったが、
「電波障害」
 だったのだ。
 今の時代は、通信関係であったり、ITと呼ばれるものが、どんどん発達してきている。
 しかし、逆に昔信じていた、
「近未来予想図」
 というものが、ほとんど、実現していないのも事実である。
 例えば、
「車が空を飛んでいた李、透明のチューブのようなところを、車や電車が走っている。さらには、ロボットや、タイムマシンが開発されていて」
 という世界である。
 ロボットやタイムマシンが開発できないわけは、自分なりに理解している。
 ロボットに関しては、
「ロボット工学三原則」
「フレーム問題」
 の二つ、そして、タイムマシンに関しては、
「タイムパラドックス」
 の問題である。
 そのどちらも、
「矛盾を説明できない」
 というところから来ていて、タイムパラドックスなどは、世界を一変させ、修復不可能にしてしまうのだ。
 ロボットもタイムマシンも、どちらも、機械であることに変わりはない。ロボットは、自分の意思を持って動くところが、近未来のロボットである。
 そのためには、人工知能が必用になるが、その人工知能と人間の本当の頭脳との違いが、
「フレーム問題を解決できるかできないか」
 ということにかかっている。
 フレーム問題のキーワードは、
「無限の可能性」
 である。
「次の瞬間には、無限の可能性が広がっている」
 ということになるのだ。
 しかし、フレーム問題の、どうしても超えられない壁というのは、この、
「無限の可能性」
 なのだ。
 無限にある可能性が、次の瞬間には待っているということなので、何か行動しようとすれば、その可能性を考えて、そして行動することになる。
 時間的な問題もあるだろうが、それよりも、
「可能性を漏れなく考えられるか?」
 ということである。
 つまり、
「人間が考える無限の可能性と、ロボットにおける無限の可能性が、同じものなのだろうか?」
 ということである。
 人間の考える可能性は、実際に目の前で発生していることを理解して、基本的には、それとはまったく無関係だと思うことを普通は考えないだろう。
 例えば、目の前の信号を渡ろうとするとき、
「信号は青だろうか?」
「左右から車両や人は来ていないだろうか?」
 というようなことを考えて、問題なければ、前に進むだろう。
 しかし、ロボットの人工知能は、それ以上にまったく別のことを考えるだろう。
 たとえば、
「空から槍が降ってきたらどうしよう?」
「車は来ていないけど、ライオンの大群が渡ってきたらどうしよう」
 などという、ありえないことまで考えてしまう。
「ありえない」
 というのは、あくまでも、人間が頭で考えて、
「ありえない」
 と思うことであって、逆にいえば、人間以外に、何がありえないのかということを聞いても、まったく違うことを考えるに違いない。
 下手をすると同じ人間でも、微妙に性格も判断も違うのだ。それを思えば、ロボットのように、
「自分たち人間がつくったものだから、人間にかなうわけはない」
 という思い込みもあるから、余計に、ロボット開発が進まないのだろう。
 それは、どこか、
「合わせ鏡」
 あるいは、
「マトリョーシカ人形」
 に似ている。
 つまり、最期には、
「限りなくゼロに近くはなるだろうが、絶対にゼロにはならない」
 という考えにも落ち着くのだ。
「無限の可能性」
 を加算方式だと考えると、
「無限の可能性」
 の次の瞬間には、またそこから、無限が広がっていることになるのだ。
 つまりは、
「無限に無限を掛けても無限。この三つの無限は言葉は同じだが、明らかにすべてが違うということになるのだ」
 ということである。
 これを一種の、
「加算法の限界だ」
 というのであれば、減算法の限界というのは、
「限りなくゼロに近い」
 というものではないだろうか?
 減算法という言い方をするからそうなるのだが、除算法と言った方がいいかも知れない。
 普通、満点から、先に進むごとに減算していく場合、テストなどのように、それぞれに最初から点数がついていて、達成できなければ減っていくというものだが、それよりも、点数がついているわけではなく、
「達成できなければ、半分ずつ減っていく」
 というようなゲームであれば、
「2で割る」
 ということから、除算法となるだろう、
 どんどん2で割っていくとする考えは、合わせ鏡やマトリョーシカ人形のように、
「入れ子の状態」
 になっているとすれば、それは、
「いずれあ、1よりも小さくなるかも知れないが、ゼロにはならない」
 つまり、
「まったくなくなってしまうということはない」
 ということだ。
 減算方式であれば、1から1を引けば、ゼロになる。そしてゼロから1を引けば、マイナス1になるというものだ。
 減算法と、除算法の決定的な違いは、
作品名:多元的二重人格の話 作家名:森本晃次