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多元的二重人格の話

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 勉強したくないもの、勉強している人間の邪魔をするもの。そんな人間を、学校は、
「別に来てもらう必要などないんだ」
 ということで、何かあれば、退学にさせて、完全に、
「腐ったミカン」
 を、放りだせば済むということになるのだろう。
 学校の先生にも、いろいろな人がいる。
 ただ、授業を教えるだけで、生徒と関わろうとしない先生、そんな先生は生徒に見透かされているので、誰も授業をまともに聞こうとしない。下手をすれば、自習よりもうるさいくらいで、先生も、
「何とか無事に終えてくれればそれでいい」
 と思っていることだろう。
 ただ、先生の中には、特に、イメージとして体育教師などは、
「いつも竹刀を手に持っていて、生徒を威喝している。しかも、考え方は昭和の頃と変わっておらず、スポーツで汗を流せば、理不尽に感じていることも、解決する」
 と思っている、いかにも理想主義者のような人もいるようだ。
「理想主義者が、竹刀を振り回して威嚇しないと、相手と話もできないとは、一体どういうことなんだ?」
 といってもいいだろう。
 それを考えると、
「その先生も結局は臆病でしかない」
 と、言えるのではないだろうか?
「暴力や威喝が通用するのは、相手が、この人は、芯が強い人だということを、自分だけではなく、まわりの人誰でもいいから、一人だけでもいいので、分かってもらうことができるかどうか?」
 ではないかと、思うのだ。
 確かに、臆病と、空元気とは、まったく違うものに思えるが、実際には、背中合わせなのかも知れない。
 それを考えると、
「著書と短所」
 だと言えるのではないだろうか?
 そこに、その人の二重人格性があり、前述の、
「神経質な人間と、いい加減な人間との違い」
 ということが、改めて考えられるというものではないだろうか?
「二重人格に思えることであるが、実際に、二重人格というものがどういうものなのか?」
 よく言われることとしては、
「ジキルとハイド」
 が例として言われるが、そこから考えていくのが、普通なのではないだろうか?
 ジキルとハイドというのは、完全に性格的に正反対の人間のことだ。
「一人の人間にまったく違った性格が潜んでいる」
 という、ウソのような話であるが、ありえないことではない。むしろ、考えられることである。
 しかも、それは、この作者が小説を書くまで、ずっと言われてきたことなのかも知れない。
 それを思うと、信憑性というのは、かなり昔からあったのだろう。
 それを小説にこの時初めてしたというのは、
「どこか、書いてはいけない、タブーのようなものがあった」
 ということなのではないだろうか?
 解禁されたわけではなく、勇気をもって書いた。
 あるいは、それまでと違った荒らしいものを求める風潮があったのかも知れない。
「時代はあくまでも、新しいものを求める」
 そんな感覚が芽生える時期が、周期的に訪れるものとして、その代表例として、
「ジキルとハイド」
 という作品があったのかm知れない・
 それを思うと、この作品は、古風なところと、新しいところが融合しているといっても過言ではないだろう。
 そういう意味で、
「時代は繰り返す」
 というが、そのたびに、進化していて、まるで、
「正のスパイラル」
 とでもいえるように、登り竜を呈しているのかも知れない。
 そんなことを考えていると、ジキルもハイドも同じ人間、どちらが主人公なのだろうか?
 と考えてしまう。
 ジキル博士は、気が弱く、
「自分の秘めたるもう一つの一面を表に出すことができれば、さぞや気持ちいいのではないか?」
 と思うことで、ハイド氏を引っ張り出す薬を生み出した。
 しかし、想像以上にハイド氏は、恐ろしい人間だった。
 妥協もなく、人の気持ちなど一切考えない。自分のことを考えるというよりも、人への妬みだけで存在しているような男。
 つまり、
「ハイド氏のターゲットは、ジキル博士なのだ」
 といえるだろう。
 ということは、ハイド氏はジキル博士の中で、眠っていたわけではなく、表に出ることができずに、くすぶっていただけなのだ。
 つまり、うずうずしていたといってもいいだろう。それだけに、怒りの度合いもハンパではないのだ。
 だからこそ、そんなハイド氏を表に出した時点で、もうジキル博士の運命は決まっていたといってもいい。
 しかし、ジキル博士ほどの人、
「つまりは、ハイド氏の存在を予見できた」
 という人が、破滅への道を予見できなかったのだろうか?
 そんなことはないだろう。分かっていて、ハイド氏を目覚めさせたのかも知れない。
「まさか、ジキル博士が自殺を考えていた?」
 ありえないことではないが、少し飛躍しすぎた考え方だ。
「ジキル博士というのは、先を読む力があるような気がする」
 と、文章評論家のような人が言っていたような気がする。
 ジキル博士は、ハイド氏を抹殺したかったのかも知れない。自分も死ぬという覚悟でである。そこまでして抹殺したかったのは、
「ハイド氏がいると、自分の将来に未来はない」
 と感じたのかも知れない。
 そこまで思わないと、まず、ハイド氏を表に出そうなどと思わないはずだ。
「表に出さないと、抹殺することもできない」
 と思ったのだろうが、ハイド氏も同じだった。
 自分が表に出てくることで、ジキル博士を抹殺したいと思ったのだろう。お互いに自分を抹殺しようというのは、恐ろしいことだ。
 しかも、身体を一つにしてのことである。まるで、鏡の中の自分を壊そうとしているかのようである。
 ジキル博士が、
「ハイド氏のような人間をこの世に生み出せばどうなるか?」
 ということは、分かっていたことだろう。
 まずは、ジキル氏を抹殺し、自分が表舞台に立とうとするに違いない。
 だが、その前に、
「どうして、ジキル博士は、自分の中にハイド氏がいることを知ったのだろうか?」
 その方が気になる。
(正直、作者は、この話を完全に読んだわけではなく、勝手な想像で書いているので、そこは、ご了承ください。そして、作者の中で、「自分ならこう書く」という思いがあるということも考慮に入れて見ていただきたい)
 たぶんであるが、ジキル博士は、他人を分析しているうちに、自分との違いが見えたのではないだろうか?
 他人が、意識していることに、その本人だけでは説明のできないようなちょっとした行動が出ている。だから、
「人の心は分からない」
 と言われるのではないだろうか?
 自分のことも他人は、
「変わり者」
 と思っていたりするだろう。
 つまりは、
「人の数だけ、それぞれに性格があるということで、しかも、同じ人間にでも、別の性格が宿ることがある、しかも、それがまったく正反対のその人であったりする」
 という考えに至った時、
「人間の二重人格性」
 であったり、
「その人以外の、誰かの影響を受けているものとは違う独自の性格がその人に宿っているのだ」
 という考え方であった。
 それを見ているうちに、
「ハイド氏が自分の中にいるのだ」
 と思った。
 その時、ハイド氏が自分に対して恨みを持っていることが分かると、きっとそれは、
作品名:多元的二重人格の話 作家名:森本晃次