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多元的二重人格の話

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 実際、あの時親の言うことを聞いていれば、と、何回後悔したことであろうか?
 しかし、それは後の祭りであり、逆に、
「いい経験をした」
 という意味でいけば、悪いことではなかった。
 だが、まさか、親も自分たちが言っていたことが、子供に対して当たっていたと思っていなかったのだろう。
 それとも、自分たちが言ったことが、悪い予感の方であり、的中してほしくないと、後からでも、感じたことだったのだろうか?
 それを、岡本は感じていたのだった。
 そして、
「まさか、自分が親と同じことを考えるようになるなんて」
 と思うと、
「ひょっとすると、親は自分の学生時代の経験を思い出していたのかも知れないな」
 と感じたのだ。
「俺も大人になって子供を持つと、同じことを考えるようになるのかな?」
 と思ったが、その時に考えたのが、
「親が今の自分くらいの頃って、同じような、学校教育だったり、学校生活だったりしたのだろうか?」
 という思いだった。
 子供だったということに変わりはないだろうが、実際に、時間が経ってみれば、どう感じるかということは、忘れ去ってしまうものなのかも知れない。
 逆に、自分が子供の頃は、親から怒られていたことで、理不尽に感じることは、
「自分が親になったら、絶対にそんなことはしない」
 と思うに違いない。
 しかし、実際に親になると、やってしまうもののようだ。
 それは、
「昔の自分のことを忘れてしまっているからなのか?」
 それとも、
「覚えてはいるが、子供の頃と今とでは、立場であったり違っている。しかも、自分は大人になったんだという自覚があることから、子供の頃のことが、本当に子供の考えだ」
 と思うことで、子供の頃とは変わってしまったのだろうか?
 そのどちらかの気もするが、どちらでもないように思う。
 そのどちらもだと感じるのは、無理のあることなのだろうか?
 一見、相違していることに見えるが、結果は同じこと。だったら、別に違うこととして考える必要もないのではないだろうか?
 結果が一緒で、プロセスが違うことなど、この世の中には、山ほど存在している。
 小学生の頃の算数だってそうじゃないか。
 途中の理論が合っていれば、どんな解き方でも、正解なのだ。
 つまりは、
「鶴亀算で解こうが、植木算で解こうが、数字を当てはめて解こうが、正解は正解だ」
 ということになる。
 しかし、正解であっても、そこには、ランクがある、
 先生によっては、説き方の好みで、その問題が10点満点であれば、5点とか3点とか、先生なりの原点方式で、採点する人もいるだろう。
 それはそれで、先生側からすれば、間違ってはいないのだ。
 算数や数学を、学問として考えるか、それとも、受験科目として考えるか。その違いによって、どう考えるかということが決まってくる。
 そして、岡本は、高校をかなりレベルを下げた学校に行き、
「中学校の時は、進学校だったのに、どうして高校で、こんなレベルのところに来たんだ?」
 と言われていた。
 実際に、レベルはワンランク、岡本に比べれば低かった。実際にクラスではトップクラスで、
「さすがは、俺たちとは中学のレベルが違う」
 と一目置かれていた。
 しかし、まわりに、仮想敵がいないと、その人や団体は緩くなってしまうもので、油断というものが生まれてくる。
 そのために、次第にだらけた頭になってきて、
「どうせ勉強などしなくたって、いつまでも、俺がトップさ」
 と思っていたのだった。
 それは、まるで、
「ウサギとカメ」
 のウサギであり、後ろがずっと遠くにいるので安心しきって、眠ってしまい、結局追い越されてしまったということになるのだ。
 もちろん、カメが追い越そうとしている時、ウサギを起こしてくれるわけではない。
「ウサギさん、起きないと、俺たちゴールしちゃうぞ」
 というわけもない。何しろ、鈍重でやっとのこさゴールに近づいたカメが、まわりのことにかまっていられるはずなどないからだった。
 気が付けば、自分だけは、ルートの途中で寝ている。
「油断した」
 といって、地団駄を踏んでももう遅い。
 だが、ウサギはそんなに悔しがるだろうか?
 あくまでも、自分が油断したから競争に負けただけで、負けたからといって、それがどう影響するかも分かったものではない。
 逆に、
「ウサギに対して、自信をつけさせてやったんだから、それはそれでいいんだ」
 と思っている。
 偏屈な考え方ではあるが、その考えが、ひょっとすると、
「サディスティックなものなのかも知れない」
 と感じた。
 恩着せがましいと言えばそれまでなのだが、あくまでも言い訳にしか聞こえてこない。
 だが、岡本はその時のウサギにはなりきれなかった。
 カメに追い越されたのは、あくまでも自分の油断なのだが、油断を引き起こした自分のどこに問題があるのかを考えると、小学生の頃に宿題が出ていたことすら覚えられなかった自分を思い出すのだった。
 つまり、どこかで感覚がマヒしてきたかのような気がして、時間の感覚すらも分からなくなるほどに、自分の頭が混乱してくることから、余計に、忘れてしまうものではないかと、宿題を忘れたことも解釈しようと考えていた。
 だからこそ、感覚のマヒを意識できるかできないかで、忘れていたことを解釈できると思うようになった。
 感覚がマヒしてきたことで、
「まるで、夢を見ていたようだ」
 と感じるのは、それだけ、
「時間の感覚がマヒしているからではないか?」
 と思うのだ。
 そんなことを考えていると、確かに感覚がマヒしてきて、あまり深く考えなくなった。それは、
「逃げ」
 のようなものではないかと感じたのは、それが、まるで麻薬中毒になった禁断症状前の、昇天した感覚なのではないかと思ったからだ。
 しかし、目が覚めてくると、そこに残るのは、
「恐怖、妄想、羞恥」
 などと言ったネガティブで、
「精神を蝕む」
 という感覚でしかないものではないだろうか。
 それを思うと、精神的なことが、妄想となってくると、意識の中で、
「限界が分かっているのか、それとも分かっていないことが一番の恐怖だと感じるというのか?」
 ということにかかってくるのだと思うようになってきた。
 だから、高校に入って、最初はトップクラスであり、いつの間にか追い越されていることで、自分の甘えが引き起こした逆転劇。あっという間の出来事に、恐怖を感じたのだ。
 高校時代というものが、元々、
「大学受験のための、準備でしかない」
 と思っている人、
 それ以外に、青春学園ものに憧れてか、
「高校時代にしかできない恋愛だったり、スポーツをする」
 と思っている人のどちらかであろう。
 帰宅部は、そのうちに、受験というものに、埋め込まれてくる。スタートが遅かったということで焦ってみたり、くらんだりするのは、やっと現実に戻ってきた証拠であろう。
 ただ、高校時代というのは、
「自分が今まで考えていた通りになってきた時代とは、そのスケールが違う」
 ということを思い知らされることであろう。
 中学時代までは、義務教育。しかし、高校からはそうではない。
作品名:多元的二重人格の話 作家名:森本晃次