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多元的二重人格の話

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 ただ、物忘れというのが、本当に覚えていなければいけないことを忘れていることが多い。
 例えば、
「宿題をするのを忘れて行った」
 としよう。
 それは、宿題があったことは憶えているのだが、ついつい、するのを忘れていたというのであれば、まだいい、しかし、岡本の場合は、
「宿題を出された」
 ということ自体を覚えていないのだ。
「だったら、最初から宿題はあったものだという意識を持っていればいいんじゃないか?」
 と言われるがそうではない。宿題ということが頭に浮かんでこないのだ。
「嫌なことに対して、必要以上に意識が高いと、そういうことになるのかも知れない。だが、宿題がそんなに嫌だというわけではない。低学年の頃までは勉強が嫌いだったので嫌だったが、
「高学年になれば、逆に学校で出される宿題くらいは、お茶の子さいさいだ」
 といってもいい。
 まるで、塾の勉強の前の、ちょっとした準備運動くらいのもので、気分転換としてはちょうどいいと思うくらいであった。
 それなのに、忘れてしまっている。
「覚えようという気がないからだ」
 と、よく言われるが、
「そもそも、皆、忘れないということは、覚えていようという意識を持っているからなのかい?」
 と聞いても、誰も、
「そうだ」
 とは答えてくれない。
 つまり、
「どんなに意識をしようとも、忘れる時は忘れる」
 ということではないだろうか?
 意識していようがいまいが、結果は一緒ということは、本当は、
「気にするだけ、労力の無駄なのかも知れない」
 と感じた。
 ただ、これは不思議なことに、学校での宿題は忘れるのだが、塾で出た宿題をわすれたことはなかった。
 それだけ、塾の方が楽しいということを自分で感じているということなのか、それとも、学校の後に塾があることで、塾の宿題が頭にのこり、学校の方をわすれてしまったということなのか?
 ただ、記憶力は決して悪い方だとは思わない。暗記ものは、決して成績が悪いわけでもない。だったら、
「同じことが、それぞれであった時、前のことが、後のことで打ち消されてしまったということなのか?」
 と考えるが、まさか本当に、そんなことがあるなどどは思えなかった。
 ただ、
「事実は小説よりも奇なり」
 というではないか?
 そんなことはありえないと思えるようなことでも、意外と自分におきやすいのかも知れない。
 それが、
「宿題を忘れてしまう」
 という、するのを忘れるわけではなく、出ていたという事実を忘れるというのは、本当に健忘症に近いものなのか、それとも、実際に覚えていないことを自分で、危険なことだと意識していないことから来ているのではないかと思えるのだった。
 そんな自分が、次第に分からなくなってきた。
 小学生の頃は先生に少々怒られても、
「実際に忘れているのだから、どうしようもない」
 と思っている。
 しかし、それが、今度は中学生以上になると、
「まわりの人が自分のことをどう考えているのか?」
 ということが気になってきた。
 たぶん、思春期に突入してから、異性のことを気にするようになったからなのだろうか、実際に気になるようになったのは、他の人よりも、若干晩生で、中学3年生の時だった。
 その頃は、高校受験に向けての勉強もあり、精神的にムズムズもしていた。
 一人で発散させるという技も覚えてしまったことで、余計に、性欲が強くなってきて、それに比例して、他のことに手がつかなくなってしまうのだった。
 しかも、その頃は学校でも、次第に取り残されるようになっていき、成績も、下から数えた方が十分に早かった。
 この学校は、トップクラスに結構人が集中していて、半分から下は、ある意味、落ちこぼれに近かった。
 だから、
「俺も落ちこぼれなんだ」
 と思うようになり、だが、そこまでのショックはなかったのだ。
 一応、下から数えれば近いくらいだったが、
「仲間が結構いる」
 と思っただけでも、かなり違う。
 仲間といってしまうと、皆に悪いかも知れないが、意外と皆もそう思っていることだろう。
 つまりは、
「仲間意識を持つことで、寂しさを紛らわすことができ、寂しさがどこから来るのかを考えた時、仲間の顔が思い浮かばないことがあることで、皆に悪いと思うものなのかも知れない」
 と感じた。
 そんなことを考えていると、
「仲間意識というものが、自分を弱いと感じさせるという意味で、どこか否定したくなる自分がいるんだ」
 と感じることがある。
 だから、
「孤独が好きだ」
 といっている、アウトローに憧れを持つことだってあるのだった。
 確かに、孤独と、他人と一緒にいる時であれば、
「人と一緒にいる時の方が安心できる」
 といえるだろう。
 しかし、それが、
「自分の本来の姿なのか?」
 と言われるとそうではない。
 実際に、自分の姿がどういうものなのか、考えたことはなかった。しかし、年齢を重ねるごとに、
「何か、臆病になってくる気がするんだよな」
 と思うのだった。
 しかし、気持ちの中では、
「時系列とともに、成長しているのは間違いのないことであり、成長していることを、どう感じているかというのが、一日一日という単位なのかも知れない」
 と感じるのだった。
 一日という単位、そして、一週間、一か月と、単位を重ねるうちに、一日一日が、どんどん小さく見えてくる。
 どんなに長い周期で考えても、そこには限りがあるのだから、その限りを考えると、幅広く考えたその時、一日単位は、まるで薄っぺらいものの重なりと感じるようになり、
「あれだけ薄っぺらい紙が、50枚、百枚と重ねると、あれだけ厚く感じるんだから、不思議なものだよな」
 と言われるが、まさにその反対なのかも知れない。
 重なったものを拡大できないと思うから、余計に、一枚一枚を薄く感じ、
「これ以上は薄くできない」
 と感じるところを、限界だと思うことだろう。
 そのうちに、紙の一枚一枚も、重ねた厚さも意識がなくなってきて、
「というのは、それぞれを気にしないというわけではなく、それぞれのつながりを意識しないようになると、感覚がマヒしてきているように思うというのは、不思議な感覚だと言えるのだろうか?」
 と感じるのだった。
 そんな感覚があったからだろうか? いつ頃からになるのか、まわりから、
「超神経質人間」
 と言われるようになったのだった。

                 二重人格

 岡本が中学時代から高校に上がる頃には、中学受験の時の経験があったので、決して、レベルの高い学校を目指すようなことはしなかった。
「もう一つ上の学校でも、難しいわけではないんだけどな」
 と先生から言われたが、
「いいえ、ここでいいんです」
 と、本人が、頑なに主張するのだから、先生も、従うしかなかったのだ。
 親も先生と同じで、
「いつからあんた、そんなに消極的になっちゃったんだい?」
 と、親は言った。
 中学受験の時は逆に親から、
「そんなに無理しなくたっていいじゃないか? 自分に合ったところが一番いいんだ」
 といっていたにも関わらず、
「なぜいまさら」
 と思うのだ。
作品名:多元的二重人格の話 作家名:森本晃次