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多元的二重人格の話

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 そういう意味で、
「ハイド氏が必要悪だ」
 とは、
「ジキルとハイド」
 という話から発想するのは、無理があるだろう。
 一足飛びに考えてしまうことになるからだ。
 あの終わり方を考えると、ジキル博士が死んでしまうというのは、ある意味、ジキル博士の、
「自業自得だ」
 といえるだろう。
 その理由が、
「絶対悪であるハイド氏を生み出したのだから、必要悪ではない」
 という思いである。
 そもそも、絶対悪というものの存在も疑わしいと二人は思っていた。
「まったく必要のないものが、この世にあるということになる」
 という考え方で。それは、一種の、
「暗黒の星の否定につながる」
 と考えたからだ。
 暗黒の星というのは、ある天文学者が創造したものとして、どこかで見たような気がしするものであるが、
「星というものは、自分で光を発するか、あるいは、光を発しているものに反射する形で光っているものだ。しかし、天体の中には、自ら光を発することもなく、光を反射させる能力のない、暗黒の星が存在するという」
 という発想であった。
 この星がいつか、地球にぶつかるという話であったが、架空の話なのか、それとも、何かの根拠に基づいて、天文学者が本当に提唱したものなのかは分からない。
 しかし、そこまでの発想は、
「言われてみれば、確かにあり得ることだ。どうして、今までそのことを感じなかったのだろうか?」
 といえるものであった。
 必要悪というのも、そういうものではないだろうか?
 しかし、この場合の
「暗黒の星」
 は、絶対悪に匹敵するだろう。
 悪であり、まったく必要としないもので、この世に存在してはいけないものだ。だからこそ、この発想をする人は実に少ないのだ。
 ということは、今の世の中で、
「悪」
 と言われているものの、そのほとんどは必要悪ということになる。
 そうなれば、必要悪の存在を否定するのであれば、世の中から悪はなくなってしまうことになる。それは絶対にありえない。つまりは、それだけ悪が必要なのだからだと言え恵右であろう。
 ハイド氏も必要悪だったとすれば、ジキル博士の死は、まったくの無駄ということになる。
 もし、この考えを作者が持っていたとすれば、ジキル博士の死に対しては、ハイド氏を呼び出したことに対しての自業自得と、二人が同一人物だということを、最終的なトリックとして、読者にセンセーショナルな形で植え付けることになるということになるのだろう。
 必要悪としての、面目躍如だといっていいだろう。
 もちろん、同一の時間軸で、別次元という、
「パラレルワールド」
 の存在が、
「同一次元の同一時間軸に同じ人間が存在していることにより、その存在を知った人間は死んでしまう」
 という、
「ドッペルゲンガー」
 というものの存在の理由付けをしているのだとすれば、パラレルワールドというものを、ジキルとハイドに当てはめて考えたとすれば、
「ジキル博士のやったことは、ドッペルゲンガーへの挑戦であり、パラレルワールド説を、完全に覆している」
 ということになるのだ。
 そういう意味で、ジキル博士は最初から、罪深き人間ということになり、死というものは、最初から確定していたといってもいい。
 だから、ハイド氏が死のうが生きようが、最終的に、ジキル博士の命はなかったわけで、ジキル博士によるハイド氏の抹殺は、まさに、
「立つ鳥跡を濁さず」
 という、ことだったのかも知れない。
 最後における、
「ハイド氏の死」
 というものは、ジキル博士における、
「罪滅ぼし」
 と、
「自殺への道連れ」
 ということだったのだろう。
 だからと言って、ハイド氏のようなもう一人の自分を殺すことで、ジキル氏も死んでしまうということが正しいのかどうなのか、議論は続くだろう。
 実際に起きることと、モラル的なことが、合うのか合わないのか、それによって、世界の成り立ちというものも変わってくる。
 そういう意味で、
「ハイド氏が本当の必要悪なのかどうか?」
 ということになるのだろう。
 ただし、
「ドッペルゲンガーを見れば死ぬ」
 ということは、これまでに、いろいろな著名人が、ドッペルゲンガーを目撃したばかりではなく、本当に命を落としている。そういう意味で、ドッペルゲンガーのオカルト的な都市伝説は、脈々と受け継がれていき、本当に、
「ドッペルゲンガーを見ると死ぬ」
 と言われることが、パラレルワールドの発想が、ドッペルゲンガーの理由付けと言われるようになったのか?
 それとも逆に、
「ドッペルゲンガーの都市伝説を説明しようとして、パラレルワールドという発想が創造されたのだろうか?」
 普通に考えれば後者なのだろうが、あまりにも、うまく理屈が嵌りすぎているため、やはり、ドッペルゲンガーという伝説があり、パラレルワールドが、別の次元から生まれた発想として存在していて、その説明にピタリと当て嵌まったということだろう。
 ドッペルゲンガーを見たことで死んでいった著名人たちの、死ぬ間際の逸話などを聞いていると、
「いかにも、パラレルワールドの考えが、ドッペルゲンガーが死に絡んだ」
 というのを証明しているのではないだろうか?
 相手が著名人なだけに、
「著名人として、この世に名を遺すような人たちは、ドッペルゲンガーを証明するために、この世に存在していたのではないか?」
 と、彼ら著名人が、志半ばで亡くなるというのは、必ずドッペルゲンガーが影響している。
 つまり、謎めいた死を迎えた人たち、謎に満ちた暗殺だったり、原因不明の病死だったりした人の中には、ドッペルゲンガーが見え隠れしているのかも知れない。
「織田信長、平清盛、蘇我入鹿、坂本龍馬」
 などと言った、
「死んだことで、世の中の時間が100年さかのぼってしまった」
 と呼ばれる人たちの謎の死や暗殺を、ドッペルゲンガーと結び付けたいと思うのも、無理もないことであった。
「では、ドッペルゲンガーは、必要悪ではないのか?」
 という発想が生まれてきた。
 ハイド氏は、自分と同一の肉体を共有していることで、
「必要悪ではないか?」
 という発想があったが、実は、
「ジキル博士の死は、ハイド氏の死と、直接的な関係にはない」
 という発想になった場合、
「ハイド氏は、必ずしも、必要悪ではない」
 といえるのではないか?
 だとすれば、ハイド氏の存在と同じ発想として、パラレルワールドによる理由付けという意味で、似たような発想があるのだということになれば、
「ドッペルゲンガーも、必要悪ではない」
 といえるのではないだろうか?
 しかし、実際に、
「ドッペルゲンガーを目撃した人が死を迎えたのは事実だ」
 と言われていることから、必要悪として、抹殺するのは、恐ろしいともいえる。
 ただ、それは、あくまでも、その人の死を、ドッペルゲンガーによるものだということにしてしまうから問題なのである。
 人の運命は決まっていて、人間に、その運命を変える力はない。あるとすれば、
「いつ、いつ死を迎えるか?」
 ということが分かるという力くらいであろう。
作品名:多元的二重人格の話 作家名:森本晃次