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多元的二重人格の話

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「しかし、ジキル博士も一緒に死ぬことで、ハイド氏が同じ時期から出てくることはなかったとすれば、ジキル博士は自分の命と引き換えに、ハイド氏の存在を説明したかったのだということになるだろう。しかし、そうなってしまうと、どうにもジキル博士は浮かばれないということになるのだろうが、ジキル博士が、実は自殺をずっと考えているような人間だったということにしてしまうと、ほとんどの人間、誰であっても生きているうちに、一度や二度の自殺を考えるということと結びつけることで、説明できるのではないかといえる」
 と、そんな風に考えるのだった。
 そんなことを考えてきた二人にとって、共通の行き着く先に、
「ハイド氏は、必要悪ではないだろうか?」
 というのが浮かんできたことであった。
 世の中には、いろいろな必要悪がある。
 基本的に、
「悪というものは、この世で必要のないものなのに、なぜか消えずに蔓延っているものでじゃないか」
 と言われるが、確かにそうである。
 では、
「なぜ消えずに残っているものなのか?」
 ということを普通は考えないだろう。
「憎まれっ子、世に憚る」
 と言われるが、それだけだろうか?
 考えてみれば、
「必要悪」
 という言葉が残っているということは、言葉ができるほどセンセーショナルな発想をした人がいて、まわりが、それを意識したということではないのだろうか?
 言葉までできているということは、それだけ、意識する人が少なくはなかったということなので、大げさではあるが、
「社会問題」
 のようなものになっていたといっても大げさではないのではないだろうか?
 ただ、そのわりには、何かがなければ、誰も、
「必要悪」
 などと言う言葉を発することはないだろう。
 というのも、必要悪というのは、
「人それぞれで感覚が違うものであり、どこか微妙なものではないだろうか?」
 と考えられるように思うからだった。
 確かに、必要悪と言われて、何があるのかと聞かれた時、複数回答を可とした場合に、皆バラバラだったりするものだ。
 しかも、誰か一人の回答を、他の数人に開示したりすると、
「えっ? これはありえないでしょう」
 と、他の人が十人中、十人がそういうこともあるかも知れない。
 そういう意味で、
「微妙だ」
 と言ったのであって、それだけに、あまり、
「必要悪」
 という言葉が使われないのではないかと思えるのだった。
 必要悪と言われて。ピンとくるものは何だろう?
 まず考えられるのは、
「一般的に考えて、倫理的にアウトであるが、存在しないと、却って社会問題を引き起こす」
 というものである。
 ただ、これを、悪と言い切ったり、仕方がないで片付けてしまうと、必ずそれぞれの派閥から反発が必至なものである。
 まず一つとして、
「堕胎」
 というものがあるだろう。
 堕胎というと、
「人間の命を奪うものだから、それは悪だ」
 と言い切ってしまうと、
「いや、養育能力のない親が産んで、結局孤児院などに預けられることになると、生まれてくるのも、酷だし、社会的にも多くなれば大問題だ」
 ということになるだろう。
 まさに、
「倫理と現実の狭間」
 といえるだろう。
 また、他には、実に危険なものとして昔から言われているのは、〇ボーと言われている人たちである。
 ある意味、風俗やギャンブル業界を守るために存在していると考えると、決して、なくなってしまうわけにはいかないであろう。
 逆に、風俗やギャンブル業界こそ、
「悪の根源だ」
 などと思っている人がいれば、それは大きな間違いである。
 確かに。
「みかじめ料」
 のようなものを必要とすることで、悪のイメージがあるが、これだって、普通に商売をしているのと何が違うというのか、ある意味、怖いのは、表の世界に生きている人間が、中途半端な好奇心だけで、裏の世界に飛び込んだ場合であり、裏の世界を取り仕切る人がいないと、本当に無法地帯になってしまう。
 そんな無法地帯になってしまうと、裏の世界が崩壊することになる。そうなると表の世界も無事ではすまないだろう。
「ジキルとハイド」
 の話で、
「ハイド氏が死んでしまうと、表のジキル博士も死んでしまう」
 ということになってしまうと、裏の世界が壊れたその瞬間に、
「表の世界も、一瞬にして消え去ってしまう」
 ということに理屈的にはなるだろう。
 そんなことがあってはいけないために、彼らは存在していると思えば、彼らのことを、
「裏社会での警察」
 といってもいいのではないか。
 そう思うからこそ、
「彼らは必要悪と呼ばれるのだ」
 と説明がつくのではないだろうか?
 実際の必要悪というものがどういうものなのか、正直分からない。
 しかし、必要悪の反対である。絶対悪というものがあるというが、その違いがどこにあるのかというのも、難しい。
「そもそも、絶対悪というものが存在するのだろうか?」
 ともいえるのではないだろうか?
「悪というものを、犯罪と同じ位置に捉えると、少し違った発想になるのではないか?」
 と考えている。
 というのは、
「犯罪を犯したから、避難されるのか?」
 それとも、
「非難されるようなことをしたから、犯罪なのか?」
 という考えである。
 どちらも同じことのように感じるが、その視点をどこに置くか? そして、答えはどこにあるのか? などということを考えていると、その違いが判ってくるのではないだろうか?
 つまり、ここでいう非難というのは、
「悪である」
 ということになるのだと考えるのだ。
 前者の場合は。少しおかしな気がする。この言葉を全面的に正しいと考えるならば、
「犯罪というのは、そのすべてが、非難されるべきものだ」
 と決めつけてしまい、
「非難されない犯罪はない」
 ということになるだろう。
 もちろん、犯罪は悪いことなのだろうから、非難されることがほとんどであろう
 しかし、そのすべてを悪だと考えると、
「では、やむを得ず犯したものも悪ということになるのだろうか?」
 ということになる。
 例えば、
「違法性阻却の事由」
 のように、正当防衛であったり、緊急避難などは、法律で裁かれないと書かれている。
 だとすると、
「これは、悪ではないか?」
 と考えると、悪にしてしまう自分がいる。
 だが、それは、一足飛びであり、自分で本当に理解できているのか? ということが問題だ。
 だから、ワンクッションという意味での。
「必要悪」
 という存在があってもいいのではないかと思う。
 必要悪というものに対して。
「絶対に一つしかない考えだ」
 というのも、どこかおかしな気がするのではにあだろうか?
 そういう意味で考えると、必要悪というものが、
「どこか曖昧ではあるが、ハッキリさせてしまうと、その柔軟性が失われるという意味で、難しい解釈になる」
 と考えるのは無理もないのではないか?
 と考えるのだった。
 必要悪というものを、言葉くらいは知っていて、そして漠然と考えている人も少なくはないと思う。しかし、その曖昧さがいいのか悪いのか、賛否別れるところであろう。逆にそこも柔軟性の一つなのではないかと思えるのだ。
作品名:多元的二重人格の話 作家名:森本晃次