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多元的二重人格の話

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 しかも、その力もかなり前からではなく、実際に死を迎える寸前でなければ分からないというものであり、本人にも、
「それが本当に迎える死の前兆である」
 と、感じさせないためのものだとすると、その前兆として、まるで夢でも見ているかのような、ドッペルゲンガーを見せるという方法しかないのかも知れない。
「人間が死を迎える瞬間を、人間が知るというのは、許されないことだ」
 とするならば、
「夢として、士気を見せる」
 という方法か、ドッペルゲンガーを見せることで、死を感じさせるギリギリの予感として、創造されたものが、ドッペルゲンガーではないだろうか?
 すると、そのドッペルゲンガーを生み出したのは何であるか?
 ドッペルゲンガーというそもそもの存在を生み出せるのは、人間しかいないと考えるのは飛躍しすぎなのかも知れないが、もし、これを生み出したのが、神だとすれば、そこに何の意味があるというのか。
 これまで、神話であったり、宗教の経典のようなものは、そのすべてが、神の手によるものだとすれば、
「人間にそのすべてのヒントを与えるのは、人間を作り出した神としての、当然のものではないか?」
 といえるのではないだろうか?
 もっとも、神話の類をすべて信憑性のあるものだと考えた場合のことであって、その信憑性が、ドッペルゲンガーというものをいかに証明できるかというのは、不透明だ。
 ということになると、
「ドッペルゲンガーというものを創造したのは、人間を創造した神とは別のものではないか?」
 といえるのではないだろうか?
「では、何か?」
 ということになると、出てくる答えは一つしかない。
「それは、人間以外の何があるというのだろうか?」
 というのが、普通の考えではないだろうか?
 ドッペルゲンガーというものが、人間に与えるものとしては、今のところ、
「悪意に満ちたものしか見ることができない」
 ということであれば、
「ドッペルゲンガーを生み出したのは、自分ではなく、自分の中にいるもう一人の自分、そう、ハイド氏なのではないだろうか?」
 ということで、曲がりなりにも、ドッペルゲンガーが、ハイド氏の存在を裏付けることになるなど、
「これを皮肉と言わずに、何と言えばいいのだろう?」
 といえるのではないだろうか?

                 大団円

 自分の中に、もう一人の自分がいることに気づいている人はたくさんいるだろう。しかし、もう一人の自分が別の肉体で存在しているかも知れないということを、可能性としては信じているが、そこまで考えて人はなかなかいない。
 それは、皆、
「心のどこかで、ドッペルゲンガーの存在を恐れている」
 ということではないだろうか?
 そんなに有名ではない気がすると思っていたドッペルゲンガーの話であるが、若い女の子など、
「聞けば話としては、オカルトとして、興味を持つような話だとは思うが、聴く人ほとんどが、ドッペルゲンガーを知っている」
 というではないか。
 しかも、
「見たら死ぬ」
 というところまで知っているという。
「どうしてそんなにたくさんの人が知っているのか?」
 と考えると、
「本当は皆が知っているべきことで、それを知らなかった自分がおかしいのではないか?」
 ということを思った。
 つまり、自分が知ったのは、大人になってからで、
「自分が大人になるまで知らなかったことを、他の人が知っているわけはない」
 という、根拠のない自信めいたものが、松平にも岡本にもあった。
 二人には、
「そういうまわりに対して、自分勝手にマウントを取りたがるかのような思いがあるくせに、自分に自信がない」
 という不思議な共通点があった。
 しかも、そのくせ、
「基本的には、自分が知っていることは、皆が知っている」
 と思っているのだ。
 だからなのか、自分が知らなかったことを、まわり皆が知っていたということを、不思議とは思わず、逆に、忌々しいという感覚で感じる。それが次第に自分を信じられないようにしていったのかも知れない。
 それも、本人に意識なくである。
 そのうちに、とどめのようにまわりから、何か指摘を受けてしまうと、
「人から叱られた」
 というよりも、さらにショックな感覚が自分の中に芽生えてしまい、それがいいのか悪いのか、考えさせられてしまうのだ。
 岡本のように、科学的な発想をしていると、どうしても理屈的になってしまう。
 ちょっとしたことでも理屈に合わないことは、頭にのこってしまい、ショッキングなこととして、その後に感じることに対しての、何かの理由付けにしてしまう。
 となると、意識は決していい方には働かないだろう。
 どんどんネガティブになっていき、最後は自分までが信じられない。
 しかも、一度信じられなくなると、どんどん深みに嵌り、
「負のスパイラル」
 を形成してしまうのだった。
 それが恐ろしいと感じてしまうと、気持ちは保守的になり、何かがあった時、
「悪いのは自分なんだ」
 と思うようになるだろう。
 というのも、悪いのが自分だと思うと、気持ちは楽なのである。
「人のせいにして、押し付ける方が楽なはずなのに」
 と自分でも分かっていながら、どうしても押し付けることができない。
 それだけ、闇が深いというのか、鬱状態に陥っていることで、何をやっても、悪い方にしかいかないと思うからだろう。
 悪い方にしか考えが及ばないと、結局自分ばかりが自信を持てなくなってしまい、やはり、
「自分にできることは、まわりも皆できるんだ。だから、まわりができることでなければ、この俺にできるわけはないんだ」
 と思い込んでしまうのだろうと感じるのだった。
 松平の方は、どうしても、ハイド氏の、
「必要悪なのか?」
 というところにこだわっているようだった。
 必要悪なのかどうなのか、
「別に自分には関係のないことだ」
 ということで、それほど頭の中で考えようとしない岡本に比べて、松平は、どうしても、必要悪だと思いたいのだ。
 それは、きっと、
「自分は、ハイド氏のように、実は影の男なんだ」
 と思っているからだ。
 何かのきっかけで表の世界に出てきてしまったが、本当は裏の人間であり、そのことに対して、
「分かってくれる人など、誰もいないだろう」
 として、そもそも、必要悪というものを、まわりの人が意識はしているかも知れないが、
「タブー」
 ということで、誰も意識はしながら、触れてはいけないものだと思っていると感じていた。
 しかも、まわりは、松平を、
「あいつは、タブーな存在だ」
 ということで、
「口にするのも、恥ずかしい」
 と思われていると感じていた。
「エロの世界のように画すべき性格を持った男?」
 と思った時、
「それだったら、まるでこの俺が、必要悪のようじゃないか?」
 と感じた。
 考えれば考えるほど、悪い方に向かっていき、
「必要のない。絶対悪なのかも知れない」
 と思うようになったが、
「なぜ、自分が悪なのかと思い込んだのか?」
 その理屈が分からない。
「自分が悪なのだ」
 ということが最初からデフォルトで存在し、そこからすべてが始まっているのだ。
作品名:多元的二重人格の話 作家名:森本晃次