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多元的二重人格の話

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 という思いを抱くことで、自分が、
「洗脳されている」
 という意識も、
「カリスマに間違いはない」
 という意識も、自分の中で一切疑わずに、当たり前のことのように感じられるのではないだろうか?
 そんな洗脳によってのカリスマ性、それがある意味、他の動物の本能と果たして、どこが違うというのだろうか?
 ミステリーに言われる、
「人間は欲のために人を殺すが、動物はしない」
 というのは本当なのだろうが、ただ、
「人間の欲と、他の動物の本能とでは、何がどう違うというのだろうか?」
 と考えれば、果たして、これについて、納得のいく回答をしてくれる人がいるのかどうか、実に疑わしいものである。
 要するに、
「人間も他の動物も、根本的なところでは変わらないのではないか?」
 と考える。
「俺たちは他の動物とは違うんだ」
 と人間が勝手に思っているから、そう感じるだけで、欲というものをあながち否定できないとすると、人間に対する考えが根底から変わってくる。
 そこで一つの仮定として、
「ジキルとハイドにおいて、本当にハイド氏は、悪なのだろうか?」
 というものである。
 つまり、
「ハイド氏が自分の中に潜んでいないで、ジキル博士だけだとすれば、ジキル博士という存在は聖人君子のような人間になるのだろうか?」
 という考えである。
 そう考えていると、二重人格と呼ばれるものは、基本的には、別の人間を見ているようで、その中に、躁鬱症も含まれるのだろうか? いうことであった。
 確かに躁鬱症を繰り返している時は、躁状態から鬱状態に変わる時、
「ハイド氏が乗り移った」
 あるいは、
「自分の中から、別人格がよみがえってくる気がする」
 という感覚はない。
 どちらかというと、きっかけのようなものがいつもあるのだ。
 躁状態が鬱状態に変わる時は、目の前に見えている景色が、
「全体的に黄色かかってくるのが見える時」
 であり、逆に、鬱状態が躁状態に変わる時というのは、
「トンネルを走っている車が、トンネルを抜ける時、出口から差し込んでくる、一瞬の光を見逃さない自分を感じた時だ」
 と思う時であった。
 このことを、躁鬱状態に入った時、いつも感じている。
 これを感じずに、
「躁から鬱に、鬱から躁に」
 ということはないのだ。
 だから、
「もし、それらの意識を感じ損ねると、どちらかの状態から抜けられなくなってしまい、永遠に、躁なのか鬱なのかという状態に入って、それが正確になってしまうのではないか?」
 と感じるのだった。
 だから、躁状態も鬱状態も、それが性格として植え付けられるまでには、
「躁鬱状態の繰り返し」
 というワンクッションが入ることになるのだ。
 だが、躁鬱を繰り返している様態で、ずっと年を取っていく人もいる。または、いつの間にか、躁鬱症から抜け出し、躁も鬱も忘れてしまう人もいるだろう。
 その人は感情が死滅してしまうような人で、一番希少価値な人ではないかと思うのだった。
 そんなことを考えていると、
「ジキルとハイド」
 の物語で、
「ハイド氏が死ぬことは、ジキル博士の死を意味することだ」
 と考えられるようだが、果たしてそうなのか?
 ハイド氏が死ぬだけで、ジキル博士の性格は生き残るのではないか?
 ただ、身体や精神の半分を形成していたハイド氏はいなくなったことで、確かに聖人君子のような人間が出来上がることだろう。
 しかし、それは、実に脆弱なもので。
「いつ死んでも不思議はない」
 といってもいいのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、松平は、次第に人間というものが怖くなってくる。
 本当であれば、他の動物も、もっと自分のことを怖いと思っても不思議はないのだろうが、そうでないということは、
「人間になまじ意識なるものがあることで、恐怖というものも一緒に感じる。それが、人間にだけある、感情というものではないだろうか?」
 といえるのであろう。
 そして、その恐怖を、松平は、
「自分のことを信用できない」
 という感情が一番大きいことが、問題なのではないか? と感じているのであった。
 だから、松平は、
「ジキルとハイド」
 という話を決して忘れることはない。
「自分が生きていくうえでの、バイブルのようなものだ」
 と考えているのだろう。

                 必要悪

「ジキルとハイド」
 という話を拡大解釈している二人、岡本と松平であるが、それぞれに発想は違うところに向かっているようだが、どこかで引き寄せられるように繋がっていくかのようだった。
 岡本は、そこから、
「ロボット開発や、タイムマシン」
 というような、
「近未来への科学的な発想」
 が生まれてきたのだし、
 松平は、そこから、躁鬱症であったり、二重人格性であったり、というような
「心理的な、さらにトリック的な発想」
 が生まれてくるのだった。
 二人はまったく違った発想に思いを抱いているように見えるが、どこかで惹かれ合うように、そのうち、岡本は松平のように、心理的な発想に向かい。松平は、近未来を科学的に見るという考えに至ることになるであろう。
 そのことを、二人とも、実は予感めいたものがあるようだった。
 そして、二人がハイド氏に対して、他の人では感じることのないと思うような発想を、お互いに感じていることを、誰が知っているというのだろう。それこそ、
「神のみぞ知る」
 ということなのか、
 この二人に共通して言えることは、
「ジキルとハイドという話は、別に架空の話でも何でもなく、普通の人間であれば、誰にでもあり得ることだ」
 と思っていることだった。
 ただ、この発想は、二人に限ったことではなく、他の人も結構感じていることではないだろうか?
 そういう意味では、二人もそうだが、他の人も、
「自分でも考えているし、他にも同じ考えの人は少なくはないだろう」
 と感じていると思っている。
 そして、
「ジキル博士がハイド氏の抹殺を図るが、実際にハイド氏を抹殺すると、ジキル博士も死んでしまうというのは、どういうものか?」
 と、同一の肉体で、片方の性格を殺したことで、普通なら、その人自身が死んでしまうということはないのだろうが、ここまで、もう一つの人格をお互いが知っているということになると、片方だけが生き残るという発想は、少し違うと思うのも無理もないと思うのだった。
 しかし、本来なら、そう思う方が実に自然なのに、どうして、
「ハイド氏を抹殺したジキル博士までが死を迎えるという結末なのか?」
 と考えるが、それも実は無理もないことなのだ。
 物語性を考えれば分かることで、
「最後に、まわりから、ハイド氏は、もう一人のジキル博士だったということを皆に知ってもらうことになるのが目的である。しかし、言葉で説明しても、普通はそんなバカなことがあるはずはないといって、まず信用してもらえないというのが、関の山だといってもいいだろう」
 と考える。
作品名:多元的二重人格の話 作家名:森本晃次