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多元的二重人格の話

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 確かに、躁状態の時には、鬱状態を、鬱状態の時には躁状態を意識することができない。それは、
「自分がなれないだろう」
 と感じることであり、
「自分の中にはないのではないか?」
 という感覚に陥るわけではなかったのだ。
 だが、それはハイド氏という存在を考えた時、
「自分の中にもいるのではないか?」
 と思うと、本当なら、
「いるわけないじゃん」
 と言って、納得いく感覚を得ることで、笑い話として終わらせられるのだろうが、一瞬でも、その存在を感じてしまうと、次第に大きくなってくるのを感じる。
 それは、感じたことで自分の感情の奥に、
「鬱状態」
 という部屋を作り、格納してしまったのか。それとも、
「そもそも、鬱状態は存在していて、鬱部屋がないだけではなかったのか?」
 と思ったが、どっちにしても、鬱部屋がほしいのは当たり前だった。
 自分の中の鬱状態は何をしでかすか分からない。その覚悟がなければ、早いうちであれば、取り消すことができるかも知れないと感じる鬱状態の意識に、翻弄されてしまうのではないだろうか。
 だが、ハイド氏は、ジキル博士でいる時には意識ができない。つまり、このように生を感じる時に自分の中で、気配を消そうとしているハイド氏を捉えることができないからだろう。
「ジキル博士とハイド氏」
 のことをもっと知りたいと思っても、なかなか知る機会もない。
 本屋か図書館に行けば読むことはできるのだろが、あるかどうか分からないと思っている時点で、
「本当に見つけることができるのか?」
 と感じてしまう自分がいるのを想像してみた。
 自分における躁鬱状態を考えてみたことがあった。
「鬱状態の時と躁状態の時で違うと感じるのは、まず、目の前の広がる全体的な色で、その次に感じるのは、身体全体に漂っている感覚の違いだ」
 と思っていた。
 視覚と感覚ということであるが、きっと他の感覚もそうなのだろうが、強く感じるのは、この二つなのだ。
 まず。視覚の場合は、全体的に見える色ということで、躁状態の時は普通に見えるのだが、鬱状態に入ると、そこは、全体的に、満遍なく黄色かかっているのだ。
 そうまるで、黄砂の時期の車窓のような、何か少し汚らしい黄色である。
 そう思った時に感じるのが、
「夕方の日差しの強い」
 という時であった。
 その暑さは、身体中にだるさが漲っていた。
 昼間のうだるような暑さのせいで、夕方にはすっかり体力を消耗し、食欲すらわいてこないような、
「バテた」
 という感覚、それが、
「身体中に漂う感覚」
 だったのだ。
 このけだるさは、身体全体で熱を受け止めたことで、表に発散されない熱が、身体に籠ってしまい、そのままけだるさになるのだ。
 そうなってしまうと、普段は受け付けるものを受け付けなくなり、何をするにも億劫で、身体の機能の中でも、重要な部分が停止してしまう。
 しかも、そこに、
「欲」
 というものまで停止することで、制御不能にさえなってくるだろう。
 つまり、食欲も、性欲も失ってしまうと、
「この俺の存在価値なんて、どこにあるというのだ?」
 と考えさせられる。
 普段は、いや、今まではと言った方がいいだろうが、結構いい加減に生きてきたことで、自分の存在価値はおろか、自分を顧みたりなどもしたことがなかった。
 そんな自分だったので、
「欲に没頭するのが、この俺なのかも知れないな」
 と、本来なら、あまりいい意味で使われない欲というものを、
「自分の存在意義」
 という見方で考えるという、一種の、
「免罪符」
 を切っているかのようだった。
 免罪符がそのまま言い訳なことは、当然分かっている。
 しかし、だからと言って、欲を否定しようとは思わない。
「問題は、欲以外に、自分の存在意義を持てないことにあるのであって、考え方に問題があるのではないか?」
 と感じた。
 そう考え方なのであるが、
「欲というものは、一般的に言われているものに限られる」
 と考えていた。
「食欲や性欲、支配欲などというものを欲というのだ」
 と思っていた。
 食べなければ死ぬという食欲はしょうがないとして、他の二つも、
「どこがまずいというのか?」
 と考えるが、言葉的に、あまりいい意味で用いられることはない。
 しかし、性欲を、
「子孫繁栄、種の保存」
 という観点から考えれば、なくてはならないもので、そのために、神が与えたものではないだろうか?
 と思えるのだが、それが自我と結びついて、エスカレートすると、性犯罪と呼ばれるものに発展し、ロクなことにはならないということで、性欲は一般的に、あまりいいたとえとして使われることはないだろう。
 支配欲もそうである。
「誰かが中心になって、支配できるカリスマがなければ、社会全体がなりたたないのではないか?」
 と考えると、一概に悪いことだとは言えないだろう。
 確かに、
「人間というのは、支配できる力を身につけると、配下のものに対して、どうしても軽んじて見てしまうことで、独裁に走ってしまうことになるだろう」
 と思えるが、それを抑えるために法律があったり、民主主義の場合には、権力分散の見地が、随所に見られる。
 だから、そんなに、
「独裁者の存在」
 を前面に出してしまい、支配者のカリスマ性を脅かしてしまうと、そこは、無政府となり、完全に無法地帯となってしまうだろう。
 そうなると、軍部による台頭であったり、今までは政府に抑えられていた、中途半端に力を持った無数の、
「反政府主義者」
 たちが現れ、混乱が巻き起こり、市民生活などまともに遅れなくなってしまう。自由という言葉はタブーとなり、誰からになるのかは、分からないが、独裁の道になることは分かり切ったことである。
 人間による、人間の支配というのは、別に人間だけではない。
 本能を中心に生きる、他の生物には当たり前のことである。
 しかし、人間は他の動物と違って、
「欲望のために、平気で人を殺す」
 という、唯一の動物である。
 ただ、それは、
「人間というものが、唯一欲望を持っている」
 からであり、ある意味、
「本能と生存のために同胞や、他の動物を殺す」
 という人間以外の動物とどう違うというのだろう。
「人間は欲のために人を殺すが、動物はしない」
 と言われ、人間がいかにも、野蛮で卑劣な動物に聞こえるような書き方をしているミステリーなどがあるが、それはあくまでも、ミステリーとして、人間を描いた時の、
「人間の人を殺す意義」
 ということを表し、小説をさらに面白く読者に感じさせるための、一種のプロパガンダのようなものである。
 読者も、半分はそのつもりで読んでいるので、それを言葉にされると、余計に、
「洗脳された」
 ことになり、そのくせ、洗脳とは決して思わない。
「洗脳こそが、人による人の支配の根底にあるからだ」
 といえるのではないだろうか?
 それを思うと、洗脳は仕方のないことであり、それにより、自分の行動が一種の本人によるものであるという感覚が見え隠れする中で、支配者のカリスマ性のせいで、
「自分の行動は悪いことに見えたとしても、神に許された行動なのだから、悪いことではないんだ」
作品名:多元的二重人格の話 作家名:森本晃次