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多元的二重人格の話

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 松平は、子供の頃から忘れっぽい性格だったことを、実はまわりに隠していた。
「忘れっぽい性格だといえば、誰も寄ってこない」
 と思ったからだ。
 しかし、その性格を直さないと、人に迷惑をかけるということも自覚していて、だからこそ、陰で治そうとしていたのだ。
 だが、そんな努力は見る人が見れば分かるものだ。
 小学4年生の頃の担任の先生は分かっていたようだ。
 いや、それまでや、それ以降の先生も分かっていたのかも知れない。わかっていて、敢えて触れなかったのだとすれば、その理由はどこにあるというのだろう?
 それを考えると、小学4年生の注意してくれた先生を。最初は、
「何でいうんだ。こっちは必死に隠そうとしているのに」
 と思った。
 さすがに皆の見ている前で、それを公表するような下種な真似をする人ではなかったが陰でこっそりと言われるのも、何か気持ち悪い。
 そもそも、陰でコソコソすること自体が、松平は嫌いだったのだ。
 だから、この性格をまわりに知られないように治そうとしている自分が嫌いだった。
 そのうちに、
「自分を嫌いになる自分が嫌いだ」
 と思うようになったのだ。
 というのも、
「まるで、禅問答のようじゃないか?」
 と、まるで、
「裏の裏は表」
 だと考えていたのだ。
 松平という男も、どちらかというと、理屈っぽく考える方だった。
 さすがに、算数の最初で、
「一足す一は二」
 という計算の理屈が分からないといって、三年生くらいまで悩むということはなかったが、確かに最初は違和感があった。
 ここは、違和感なく突破すれば、気にすることはないのだ。
 突破するほどの力と無意識な感覚はなかったが、
「気が付けば、突破していた」
 ということであろうか?
 それを思うと、松平が自分をなかなか信じられないと思えることも、少しずつ分かってくる気がした。
 小学生の頃、人の秘密を、平気で暴露する、
「なんと無神経なやつなんだ」
 と感じるようなやつが確かにいた。
 そいつの本心は、
「俺が、少しでも、人のことが分かるんだということで、まるで人にはない能力を持っていることで、マウントを取りたい」
 と思っているのではないかと思うようになった。
 それだけ、彼は、自分が目立ちたいという思いを持っていて、それが、まわりに、
「無神経」
 だと、どれほど思わせるのかということを分かっていないということだろう。
 だから、
「マウントを取りたい=目立ちたい」
 という気持ちではないかと思うと、
「目立ちたい」
 と思う人は、どこか高圧的な感じに見えるのだ。
 皆が皆、そうだというわけではないだろうが、そうだと思うと、目立ちたいと思う人には、どこか警戒心を持つようになったのだが、それは、自分もどちらかというと、目立ちたいと思うところがあるからで、自分の中に、
「マウントを取りたい」
 という思いが、見え隠れしていると思うと、自分が少し嫌になっていた。
 ただ、自分は無神経ではないと思う。人が嫌がることは、自分だっていやだという理屈が分かっているので、人が嫌がることをしたくはない。
 だが、知らず知らずのうちにしているのか、たまに、
「「お前って、無神経なやつだな」
 と言われて、ショックを受けてしまい、もう何も言えなくなり、しばらくの間、人と話すのも嫌になる時期があった。
 そんな時期は、相当ショックであった。普段と同じ景色を見ているはずで、光景に変わりはなにのだが、何かが違うと感じるのだ。
 それは、見えている位置に変化がないので、すぐには気づかないが、
「そうか、背景色が違うんだ」
 と思うと、後ろに浮かんでいる景色の全体的な色が違うということなのだろう。
 その色は、黄色が飼って見えるのだ。すぐに背景色が違っていることに気づかなかったのは、そこに既視感があったからではないだろうか?
 既視感というのは、
「初めて見たわけではなく、視界として、記憶の中なのか、意識の中に入っているものではないか?」
 といえるだろう。
 意識の中と記憶の中、どのように違うのかというと、
「記憶の中というのは、一度意識したところから、時間が経ったことで、意識から離れ、記憶としての感覚に移ったということだが、意識というのは、最初から記憶として残そうかどうしようかを寒暖するための機能であり、そして意識を持っている間、それが自分の行動を抑止するものだ」 と感じていた。
 だから、記憶は最初からずっと続いていくものだが、意識の場合は、最初にそれを残すかどうか、つまり、記憶の方を残すかどうかを考えているのだった。
 意識というのは、そもそも、能動的な感覚で、記憶は受動的なものだ。
 だから、
「意識にはなく、記憶にだけ存在しているというのは、そこまで強く思ったわけではないが、記憶として残っていることなので、それが夢の世界と頭の中が混乱してしまうことなのかも知れない」
 と感じる。
 ただ、意識というものが強すぎると、そして、それが後ろ向きの思いだったりすると、その時自分が、
「鬱状態に突入したのではないだろうか?」
 と思うのではないだろうか?
 鬱状態というものを考えた時、
「元から自分に備わっているのかも知れない」
 と感じる。
 それはまさに、
「ジキル博士の中にいた、ハイド氏のようではないだろうか?」
 と感じるのだった。
 ジキル博士とハイド氏は、お互いにまったく別の性格が宿っているかのように思える。
しかも、それは正反対の性格である。
「そんなことは、分かり切っていることではないか」
 と他の人はいうかも知れないが、それは、実際に小説を読まずに言われていることを自分で解釈しているから、そう思うのだろう。
 しかし、それは、皆が思うことのはずで、
「自分だけが違う」
 というのはおかしなことだ。
 しかし、そう思いたいという感情が強いと、ハイド氏に、ネガティブな面しかない人間だということを余計に感じたいのだろう。
 ということは、
「ジキル博士が、躁状態の自分であり、ハイド氏が、鬱状態の自分だ」
 ということになるだろう。
「躁鬱症は、ずっと繰り返していて、そこからは抜け出すことは困難だ」
 ということになれば、その周期が問題だったりする。
 人によっては、毎日変わるものかも知れないし、一月ほどが周期の人もいるかも知れない。
 松平本人は自分の躁鬱状態を、2週間ほどだと思っている。それ以下でもそれ以上でも、続けていれば、相当きつい状態に一気に上り詰める気がしたからだ。
 最初の頃は、自分に躁鬱があるなど思ってもみなかった。しかも、思春期という微妙な時期に感じるようになったわけではなく、思春期が終わってから、結構経ってからのことだった。
 そして、躁鬱症の存在を感じた時、周期を繰り返すこと、そして、自分の中にもう一人いるということが、分かった時でもあった。
「きっと思春期の時に気づいていたとしても、自分の意識がどこまで、躁鬱症というものを受け入れたか分からないだろう」
 つまり、躁鬱症という状態を、
「夢でも見ているのと同じ感覚になるのではないだろうか?」
 と感じたからだった。
作品名:多元的二重人格の話 作家名:森本晃次