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多元的二重人格の話

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 などと言って、国民を巻き込むことになるのだ。
 そもそも、国家は国民を守るためにあるのではないのか?
 そのはずなのに、まだ、当時の大日本帝国はまだマシで、今の政府の方が、もっとひどいというものだ。
 何しろ、日本人がパンデミックで苦しんでいるのに、他の国が戦争しているからといって、片方の国にだけ加担して、血税をどんどん渡しているではないか。しかも、そのひと昔前には、前代未聞の、
「消えた年金問題」
 があったではないか?
 年金は、給与天引きの場合は、半強制的に支給額から相殺の形で、減らされた分を貰っている。
 自営業の場合は、確定申告によるものなのだろうが、
 その年金は、本当は、国民の義務なのである。
「勤労」
「納税」
「教育を受けさせる義務」
 これが、国民の三大義務である。
 その年金をこともあろうに、何年もの間、ずさんな管理を、政府がしていたことで、大問題になった。誰がいくらなのかが分からなくなる始末だったのだ。
 何とか計算しなおして、今では何とかなっているが、あの時の混乱で、国民はすっかり政府を信用しなくなった。
 そのため、サラリーマンは仕方がないとしても、個人事業主は、税金を払わない人が増えてきている。
「どうせ、俺たちが年金をもらう頃には、年金制度なんて崩壊しているに違いないんだ」
 ということであろう。
 つまり、年金収入が減ってくると。ただでさえ貧乏な国が回らなくなってくる、下手をすると、
「自転操業すら、できなくなってしまうのだ」
 ということである。
 だから、政府を信用しないことで、日本は崩壊に向かっているのだろうが、皆、
「どうせすぐに崩壊する」
 とはいいながら。国民はどこか他人事だ。
 そこが、そんな政治家を生む国民気質なのかも知れない。
 そんな国だから、
「不測の事態」
 が起こった時でも、政府発表がトンチンカンなのだ。
 未曽有の通信障害が起こった時、電話回線がパンクしたことで、電話も掛けられない状態だった。
 それは、緊急電話も同じことで、
「110番も、119番もかからない」
 という状態になったのだ。
 そんな時の政府の言い分は、
「他の会社のスマホを持っている人に借りるか、公衆電話などから掛けるか、固定電話を借りるか、あるいは、お近くの消防署に駆け込んでください」
 という、すべてにおいて、信じられないような言い方をしたのだ。
「他の会社のケイタイって、誰がどこを使っているのかってわかるのか?」
 あるいは、公衆電話を使えといっても、
「そもそも、公衆電話は需要が少ないから、ほとんど街から撤去されてないではないか?」
 ということである。
 また、固定電話で掛けろというが、
「固定電話だって、電話番号の権利などというお金がいることで、電話を持つには最初10万円くらいがかかっていたはずだろう、誰がそんな無用の長物をつかうというのか、商売をしている人以外で、固定電話を持っている人を探すだけで、大変なのだ。
 つまりは、今の電話回線というのは、インフラと同じで、
「なくてはならないもの」
 であり、なくなってしまうと、地震などの天災時と同じで、まったく都市が機能しなくなってしまうといってもいいだろう。
 それを考えると、電話回線がないということは、
「街の明かりがすべて消えた電気のない状態と同じだ」
 といってもいい。
「災害があった時のために、スマホのアプリで避難場所や自分がどこに避難すればいいかなどということを分からなければいけないのに、それが分からないのだ」
 ということである。
 そもそも、ケイタイから始まった日本の通信事業の優位は、スマホの出現で地に落ちた。
 日本は自分たちが開発したガラケーの力を過信し、スマホに移行している諸外国の流れに乗ることができず、結局、取り残されてしまった。
 それが、
「離れ小島であることから、独自の文化が発達した、ガラパゴス諸島のようなケイタイということでなずけられたガラケーという言葉、いい意味であるわけはないが、日本人はその意味を知っているのだろうか?
 ただの、悪評というだけで考えているとロクなことはない。
 とにかく、今のスマホは、
「小さなタブレット端末であり、パソコンがなくても、アプリが使える」
 という触れ込みであった。
 つまり、回線がつながらなければ、昔のコマーシャルで一世を風靡した言葉を思い出すことになり、
「冷蔵庫、電気なければ、ただの匣」
 というのと同じである。
 スマホだって、万能ではない。電気が繋がっていなければ、最期には、充電がキレて、本当にただの箱になってしまう。
 これはガラケーであっても、他の電気製品、すべてに言えるおとだ。
 だから、昔の大型コンピュータというものは、無停電装置に繋がるようにしていて、少しは延命ができるようにしていた。
 それでも、数時間が限度で、それを過ぎると、もう、どうしようもない。
「文明の利器と言われるが、電気というもの一つないだけで、まったく何もできなくなってしまう」
 ということになるのだ。
 冷蔵庫、洗濯機、テレビの中で一番必要なものは、冷蔵庫であろう。
 テレビは、最悪誰かに見せてもらえばいいし、洗濯はしなくても死にはしない。
 だが、冷蔵庫は、食事をしなければ、人間は死んでしまう、数日間冷蔵庫がないだけど、どれほどのものが食べられなくなることか、それを考えると、
「本当になくてはならないものだ」
 といえるだろう。
 スマホの場合は、情報収集という意味では絶対に必要なものだ。特に大災害が発生してきた時。
「ラジオも聞けるしテレビもみれる。そういう意味で、決して使えなくなるというのは、自殺行為に近いものがあると言えるであろう」
 それを考えると、
「通信機器に携わる人間は、それなりの覚悟がいる」
 といっていいだろう。
 それは、本来は通信機器だけに限ったことではないが、それ以外をどう考えるか、それが問題である。

                 自分を信じられない男

 世の中には、自分のことをどうしても信用できないと思っている人がいる。その人は、自分が信用できないと思うのは、
「肝心なことに限って忘れてしまうからだ」
 と思っている。
 というのは、肝心なことを忘れるというのは、さぞや、
「自分にとって、都合のいいことだけを覚えておこうと思う気持ちに表れではないか?」
 と思ったのだが、実はそれはおかしいと自分で思っている。
「覚えていないといけないと自分で思っているのだから、それは、自分に都合がいいとは言い難いのではないだろうか?」
 というのも、理屈としては通る気がする。
 彼が、自分のことを信用できないことを自覚したのは、
「元々、子供の頃から忘れやすい性格だった」
 ということだ。
 その頃は、正直、
「自分に都合の悪いことを忘れてしまうんだ:
 と思っていた。
 子供だからこそ許される感覚であるが、そう考える方が楽ではないか。
 つまり、
「自分に都合のいい悪いということを、分かっていないのではないか? あるいは、納得できていないからではないか?」
 と考えるのであった。
 彼は名前を、松平博という。
作品名:多元的二重人格の話 作家名:森本晃次