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多元的二重人格の話

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 その考え方が、世の中において、いかなる種類の考え方があるか、つまり、
「考え方は、人の数だけある」
 といってもいいことは、
「見減の可能性」
 が証明しているということである。

                 電波障害

 そんな岡本も、社会人になり、年齢的に、今年で30歳を過ぎようとしていた。
「30歳を過ぎると、あっという間に月日が過ぎる」
 といっていた人がいたが、まさしくその通りであった。
 今年、30歳になって、すでに気づき始めたのであって、それも、
「毎日の一日一日はそんなに変わらないのに、一週間、あるいは、一か月という、まとまった期間になると、その流れは結構長い」
 といってもいいだろう。
 だから、
「月日があっという間に、過ぎるぞ」
 と言われるのだろうということを理解したのだった。
 ただ、これは学生時代から感じていたもので、高校時代までは、一日一日が長かったのに、中学高校はあっという間に過ぎた気がした。
 しかし、なぜか、高校卒業の瞬間から、中学入学を思い出すと、かなりの長さに思えるのだ。
 それはきっと、その長さというものが、最初と最後の間に、どこかで、思春期というものが、作用しているのであろう。
 ひょっとすると、その間すべてが、その思春期の間だったのかも知れないが、本当は、最期の最期まで、思春期だったのかも知れないが、この感覚に及ぼす期間というのは、それほどでもなかったのではないだろうか?
 つまり、思春期の間というのは、一本の線ではない。いくらでも、パターンのようなものがあるのではないだろうか?
 恋愛感情であったり、反抗期であったり、性欲が生まれてくるという期間であったり、
本来なら、一つずつが存在してもいいはずなのに、一緒くたにして、
「思春期と呼ぶのだから、ある意味ややこしい」
 といえるであろう。
 そういう意味では、
「思春期」
 という意味で、一つのことを考えてしまうのであれば、中学高校の6年間は長いといってもいいだろう。
 だから、まるで、
「いくつもの、別の種類の思春期が存在したから長かった」
 と言えるのだろうが、それは、半分、間違いではないだろう。
 思春期というのはいろいろあるだけに、人によっても違う。
 最初に身体が大人になる人もいれば、最初にませてくる子もいる。それは、男女でも違うだろうし、反抗期がない人もいれば、女の子に対しての興味が、高校生になるまで出てこない人もいる。
 それはあくまでも、
「個人差」
 であって、それが、
「人の数だけパターンがある」
 といってもいいだろう。
 そんな中で社会人になる頃には、皆、辻褄が合ってくるのが、さほど、成長において、襲い早いは関係がないように思えるのだった。
 社会人になってからというもの、高校生の頃を思い出すと、やっぱり、
「遠い昔」
 であった。
 ただ、不思議なことに、大学生の頃のことが、場合によってであるが、高校時よりも昔に思えてくるのだが、これはどういう発想からであろうか?
 考え方は、間違いなく、時系列、年齢に沿って成長してきているはずだ。
 しかし、それは社会人になるまでであって、社会人になると、いやがうえにも、皆同じ時間軸で動くことになる。
 確かに会社で競争というのもあるのだが、それ以上に、会社は組織であり、一人でもおかしな人がいれば成り立たない。
 それを感じることで、社会人というものが、
「入社してしまえば、横一線だ」
 ということになると思うのだった。
 中学の時も同じことを考えたはずだったが、実際に入ってみると、最初のレベルの違いから、自分が焦ってしまったことを後悔した。だから今は、中学時代の同じ過ちを犯さないという思いから、
「社会に出ても、まわりに対してのライバル心を持ち続けなければいけない」
 と思うのだった。
 しかし、確かに社会人というのは、組織の中の一人だという意識の方が強い。それを無視すると、やっていけないのも当たり前のことである。
 高校時代は、中学の頃程、神経質にはならなかった。
 それはなぜかと思うと、
「感覚が慣れたのかも知れない」
 と考えた。
 やはり、間違いだと思えることでも、長く信じることは難しいのではないだろうか?
 社会人になると、今度は、
「同じスタートラインに立った」
 と感じるのは、
「学生が終わったからだと言えるだろう。
 これまでは、大学の4年。最高学府の最高位にいるのだが、卒業して会社に入ると、誰であれ、一年生なのだ、
 確かに、高卒、大卒では違いがある、スポーツの世界、相撲であったり、官僚や警察などの、国家試験を伴う就職先は、入った瞬間から、合格者と不合格者とで、天と地ほどのさがあるではないか。
 それを思うと、確かに、官僚クラスは違うのだろうが、一般企業に就職した人は、
 どんな会社に入っても、レベルというものはあるのだろうが、一本のスタートラインに並ぶという考えに相違はないだろう。それだけ、社会人というものは、会社側でも、面接で、
「この会社にふさわしいと思い、合格者を決めている」
 ということであろう。
 本人たちが思う思わざるにかかわらず、上司はそういう目でしか見てきていないのだ。つまり、
「この会社に入ってくる前の学生時代までの新入社員たちのことを知る由もなければ、知りたいとも思わないということであろう。
 だから、
「五月病」
 というものがあるのであり、会社の先輩も、新入社員を、
「まだまだ学生気分が抜けていない」
 と思っているのだろう。
 学校を卒業してから、会社に入ってから、初めて、自分が、試されるという立場になったことに気づいた。
 確かに、学生時代の上下関係も難しいものがあるが、問題は、
「上にいけばいくほど、責任が重くなってくる」
 ということである。
 確かに、学生時代も学年が進むと、責任を問われる目で見られることだろう。学生時代でも、学年が上だと責任を問われるが、最終的には先生っであったり、大人に責任がいく、だが、社会に出れば、どんなに新入社員であったとしても、どんなに小さなことであろうが、責任は取らなければいけないであろう。
 それだけ、自分が見ているよりも、
「世間は広い」
 ということになるのであろう。
 それを考えると。社会に出てからの一日一日、さらに、一週間単位、そして、一年という、
「短期、中期、長期」
 で感じが違ってくる。
 実際にそれを感じたのは、主任になってからだ。
 それまでは、自分の仕事だけをこなしていればよくなったが、今度は、設計書を作る段階、つまり企画にまで顔を出さなければいけなくなる。
 そこには、計画がいくつもあり、
「数年先までの長期計画から、1カ月先まえの短期計画と、期間ごとに組まなければいけないことが結構ある」
 といえるのではないだろうか?
 そういう意味で、長期計画を考えている時の感覚が、新入社員の時に、高校時代を思い出すのと、中学時代を思い出すことで、時系列に矛盾を生じたことが、今回の問題にも関わってくるかのように思えるのだった。
 その問題であるが、
作品名:多元的二重人格の話 作家名:森本晃次