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多元的二重人格の話

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 というものが、一つの時系列に沿って世界が成り立っているわけなので、それを逆行すると、当然、理屈に合わないことが起こるのは当たり前である。
 しかし、その時系列が二つ、いや、発想をもっと深くして、
「世界自体が二つあれば、辻褄が合わない世界が開けるだけだ」
 ということにしてしまい、もう一つ進行している世界の方に飛び込んだと考えると、タイムパラドックスも説明できるという考えであるが、
「あまりにも、強引すぎる気がする」
 というのは、考えすぎだろうか?
 ただ、マルチバースと、パラレルワールドを、一緒にして解釈しようとすると難しいところがある。パラレルワールドは、
「同じ時間軸が別の次元に存在している、世界としては同じ世界」
 という解釈である。だから、同じ時間のその世界には、自分と同じ、そして、まわりの人も同じ人が存在していて、ただ、同じことをしているとは限らないという世界のことをいうのだった。
 タイムパラドックスで、もし過去に行ったとして、その過去を変えてから現実に戻るとすれば、そこは、
「パラレルワールドだった」
 ということではないかと考えることで、タイムパラドックスの辻褄を合わせようとするものであるが、少々強引に思える。
 しかし、タイムパラドックスというものは、
「一度しか繰り返せない」
 ということになるだろう。
 それはあくまでも、
「世界が二つしかなかったら?」
 というものである。
 ただ、ここに、先ほどの、
「次の瞬間には、無限の可能性が広がっている」
 ということなのだから、
「その無限の可能性の分だけ、パラレルワールドが広がっている」
 と考えるのは、あまりにも無理のあることではないだろうか?
 だが、マルチバース宇宙論は、今まで自分たちが、一番広いと思っている宇宙が、無限に広がっているという理論ではないか。
 それを考えれば、パラレルワールドの世界だって、無限に存在していると考えるのは、おかしなことであろうか?
 そう考えると、過去に戻って、何度でもやり直すことは可能だと言えるのではないか?
 ただし、パラレルワールドであっても、マルチワールドであったとしても、
同一人物が、同一次元、同一時間軸に存在するというのは、許されないことではないだろうか?
 となると、何かの弾み、例えば、タイムパラドックスの失敗によって、戻った世界が別の世界だったとすれば、
「そこには、もう一人の自分が存在しているはずだ」
 といえるのではないだろうか?
 そうなると、どちらかの存在を否定しなければいけない。
 その考えが、
「ドッペルゲンガーの考えになるのではないだろうか?」
 ドッペルゲンガーというと、
「もう一人の自分がこの世に存在している」
 と言われるものである。
 それは、
「この世に三人はいる」
 という、似た人というわけではないのだ。
 あくまでも、もう一人の自分ということで、言い伝えとしては、
「ドッペルゲンガーを見ると、その人は近い将来死んでしまう」
 ということであった。
 しかも、ドッペルゲンガーを見たのは、自分でなくてもよい、誰が見ても、その人のドッペルゲンガーに変わりはない。
 さらに、パターンとして、
「声を発しない」
「その人の行動パターン以外には現れることはない。
 というものである。
 つまりは、
「その人と同じ人間が同じ行動パターンで存在している」
 ということになり、そのうちに、出会い頭に遭ってしまう。
 そのため、見た瞬間に、その人は死んでしまうということなのだが、果たして本当に死んでしまうのだろうか?
 魂だけが、向こうの世界に行ってしまい、抜け殻になるのではないか?
 もっとも、
「それを死だ」
 というのであれば、向こうの世界で死んだ自分がこっちの世界に来ているとすれば、行動パターンが同じなのも、一言もしゃべらないのも理屈には合っているというものだ。
「ということは、ドッペルゲンガーは死人であり、向こうの世界とを行き来するには、死ななければいけない」
 ということになるのであろう。
 肉体は、すぐに荼毘に付されるのだから、乗り移るわけにもいかない。そもそも、同じ人間といっても世界が違うのだ。抜けた肉体にそう簡単に入れるとは思えない。
 ある意味、パラレルワールドというのは、
「タイムパラドックスの理由付け」
 ではなく、
「ドッペルゲンガーの理由付けになっているのではないだろうか」
 パラレルワールドが、ドッペルゲンガーの理由付けというのは、あまり聞いたことがない。
 普通に考えればありえることだと思うのに、なぜここまで誰も考えないのか、おもしろいものである。
 しかも、なぜなのか、
「ドッペルゲンガー」
 という言葉を知っている人は結構いる。
 しかも、言葉を聞いたことがあるというだけではなく、
「見たら死ぬ」
 というところまで知っているのだから、きっと、マンガやアニメの世界では、ポピュラーな発想なのかも知れないと感じた。
 なるほど、物語のテーマ、オカルトやホラーなどでは、格好の題材ではないだろうか?
 それを思うと、ドッペルゲンガー以外にも、
「あまり知名度は高くない」
 と思うようなことでも、実は、よく知られているということも多いのではないだろうか?
 マンガやアニメをバカにしていたが、実際にはそこまでのことはないのかも知れない。
 そもそも、黎明期の人型ロボットというと、そのテーマの根底には、
「ロボット工学三原則」
 があったものだ。
 中には、そのまんま、
「フランケンシュタイン症候群」
 というのもあったくらいで、マンガ家や小説家というのは、発想の根底は同じところにあるに違いない。
 そんなタイムマシンや、ロボット開発が進まない中で、それぞれの発想の根底と、開発を進められないわけを見ていると、結局戻ってくるのが、
「ジキルとハイド」
 の話ではないだろうか。
 二重人格の話、これはドッペルゲンガーに繋がるもの。ドッペルゲンガーが、同一時間軸の、別次元の人間という意味での、パラレルワールドであるとすれば、
「ジキルとハイド」
 は、同一人物の中に潜む、別人格であると言える。
 しかも、ジキルとハイドの場合は、その性格はまったくの正反対であるということ。だから、二人の間には、
「お互いに、どちらかが表に出ている時は、もう一人は眠っている」
 ということなのだ。
 そもそも肉体は一つしかないのだから、別人格が、同時に表に出てくるということはありえない。なぜなら、表に出てきた性格は、それぞれに相手の存在を知らないのだし、もし分かっているとすれば、間違いなく、
「自分に、そんな性格が備わっていたなんて、信じられない」
 と思っているに違いない。
 だから、それぞれに反発しあい、拒否反応を起こすだろう。
 それこそ、
「アナフィラキシーショック」
 のように、
「本来なら、できることで自分の身体を守る免疫に寄るショックで、死に至る」
 というような、まったく想定外のことが起きてしまう可能性だって含まれているのだった。
 だから、ジキルとハイドは、それぞれの存在を知りながら、
「触らぬ神に祟りなし」
作品名:多元的二重人格の話 作家名:森本晃次