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自由と偽善者セミナー

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 きっと、水平線は、自分が見ている中で、かなり低い位置にあるのではないか?
 それこそ、海が7で、空が3も割合くらいにである。これでは、最初に正面から見た構図と正反対ではないか?
 といえるだろう。
 これは、一種の錯覚で、上下でまったく違って見えるという意味で、
「サッチャー錯視」
 と言われるのと同じような感覚なのかも知れない。
 特にこれが、人間の顔であれば、もっと顕著に見えるかも知れない。それは、人間の顔というものが、
「見る角度によって、同じ歪んで見えたとしても、普通に見れば、笑顔に見えるものも、逆さだと、感情を掴み切れずに、無表情であるか、あるいは、まったく正反対に見えるかも知れない。それは、口にだけ言えることではなく、目だって同じだ。しかも、それが、作られた表情なのか、普段からの表情なのかに左右されることはない。
 ということになれば、逆さに写った顔を判断する時、
「無表情でしかないのではないか?」
 と考えたとして、無理もないことに違いない。
 と考えられるのではないだろうか?
 このサッチャー効果に近いものが、風景画を逆さから見た時に感じるもので、
「天橋立」
 の場合は、普通に見れば、陸地同士を、どんどん狭くなっていったその先で、ギリギリの道として見えているものだが、それを逆転させると、
「まるで竜が天に昇っていくかのように見える」
 というありがたい様相に見えることでの絶景スポットになっていることから、日本三景の一つとなったに違いない。
 ただ、世間に無数にあるであろう展望台にて、逆さから同じように見た場合に、まったく違った別のものに見えるというのは、結構あるだろう。
 しかし、
「竜が天に昇っていく姿」
 のような、霊験あらたかなものが、どこでも見れるというわけでもない。
 むしろ、
「天橋立だから」
 ということで、皆からありがたがられる方が大切ではないか。
 確かに世の中に無限にそんなところがあれば、ありがたみはどんどん減っていって、元祖であるその場所から、霊験あらたかさから、離れた存在になるというのは、実にもったいないことであり、残念なことだと言えるだろう。
 しかし、本当は、
「何が見えたから」
 というのが大切ではなく、
「逆さから見ると、普段とは、まったく違ったものに見える」
 ということが大切なのであろう。
 そんな、バランスを見るためのサッチャー効果であるが、これには、遠近感という別の側面を見ることもできる。
 そもそも、サッチャー効果、サッチャー錯視というのは、かつてのイギリスの女性首相であり、
「鉄の女」
 という異名を取った、
「マーガレット・サッチャー」
 からの由来であった。
 逆さから見た表情がまったく違って見えることで、上下を逆さまにすると見え方が違って感じられるという効果を錯覚として捉えた考え方だといってもいいだろう。
 さっちゃアー効果によって得られる遠近感、これは、バランスの違いが及ぼす錯覚とも同じなのかも知れない。
 遠近感を考えた時、特に水平線から手前とその先の空とでは、本当は相当な距離の性あるだろう。
 しかも下に下がっていくほど、こちらに近くなっているという感覚、同じ大きさでも大きく見えるはずだという感覚が、逆さにした時に錯覚を呼ぶのだ、
 砂浜であったり、海面であったりするものは、絵に描いたり写真で見たりしても、何かがあるわけでもないから、捉えどころがない。それなのに、
「手前に来るものが近くだ」
 ということで、本当なら下に行くほど大きく見えるということを、感じるとすれば、
「それは錯覚でしかない」
 ということになり、基準となるものが分からないことで、そう感じるのだ、
 そうなると、逆さにしてしまえば、まったく逆の効果を呼ぶのだろうが、感覚的なことでは、
「下の方が、近くに見える」
 と思って見ていると、空が本当に近くに見えてくるし。
 実際には、
「海面の方が近くなんだ」
 ということは理屈で分かっているからこそ、錯覚に抗おうとしても、そこに無理が生じ、錯覚を引き起こしても、それは、仕方のないことだと思うようになれば、錯覚が見えたとしても、それは無理のないことであると言えるだろう。
 絵を描くにおいて、
「バランス感覚」
「遠近感」
 というものが必要だとすれば、行き着く先は、絵を描く場合においてということになるのだが、
「立体感」
 ということになるのではないだろうか?
「サッチャー錯視」
 において逆さから見ると、どうしても、立体として認識することが難しいのだとすれば、そこに生まれてくるのは、錯覚でしかないのだ。
 普通に見て、
「これが普通だと思えば思うほど、逆さに見ると、
「これは錯覚だ」
 と思うようになるしかないだろう。
 そう考えると、写った錯覚は、
「どこまでが本当で、どこからが錯覚なのかという曖昧さが問題になるだろう」
 といえるのではないだろうか?
 それだったら、
「最初から、すべて錯覚だった方が、自分として受け入れられるのかも知れない」
 と思えるのだった。
「絵画を志す上で、錯覚というものは、切っても切り離せないものだ」
 といえると考えれば、
「錯覚というものも、自分の中でどこかでが許容できるものなのかということを考えておく必要がある」
 といえるのではないだろうか?
 サッチャー錯視も、
「絵画を志す意味で、避けては通れない課題なのだとすれば、甘んじて受け入れ、どういうものなのかを自覚する必要が大切だろう」
 と言えるのではないだろうか?
 芸術というものが、いかに錯覚や思い込みに入り込んでくるか? それが問題なのではないだろうか。

                 小田原評定

 会社で仕事をしていると、最近は、次第に心労疲れを感じるようになった。元々プログラマーをしていた時期は、あれだけ楽しかったのだが、分かっていたこととはいえ、想像通りというか、覚悟していたが、というか、主任に昇格すると、プログラムを自分で組むことから次第に離れていくのだった。
 それまで、貰っていた仕様書を今度は、こっちが書かなければいけなくなる。それはそれでもいいのだが、
「どうせ、仕様書まで書くのなら、自分で作った方が早いのに」
 と思うのである。
 プログラマーをしている時は、正直、上が決める工数は、自分には余裕なものだったので、一日くらい早くできれば、最期に一日は、設計書づくりをしていた。
 仕様書はあくまでも、作り方の条件や、項目の移送内容を列記したり、入出力の定義を示しているだけだった。
 しかし、設計書ともなると、できてから書くもので、実際にどのようなロジックが存在するのか、ロジックごとに、さらに詳細に仕様書を落としたものである。
 それだけに、プログラムができてからでないと作れないもので、なかなかここまで作っているところはないだろう。
作品名:自由と偽善者セミナー 作家名:森本晃次