自由と偽善者セミナー
「どうしてなのか?」
と聞かれた場合、どう答えるかということがわからなかった。
つまりは、理解できていなかったということであって、理解できていないということは、言葉に信憑性はないということだ。
しかし、その理屈が分かっていたつもりだったが、そのことをハッキリと分かった時には、すでに、
「人を殺してはならない」
ということに対して、疑問を抱き始めた時だというのは、実に皮肉なことである。
逆に、
「疑問を抱いてきたということは、その理屈を自覚できるようになったことから起こったことなので、ある意味、一歩前に進んだのかも知れない」
と考えることもできるだろう。
考え方が両極端で、それぞれに理解をしているというのは、そこでの葛藤が、どういう答えを産むか、興味津々である。
両極端な意見が自分の中で葛藤するというのは、学生の頃にはあまりなかったことだ。特に学校での授業は、高校時代までは、決まっていることを教えられ、テストでどれだけ覚えているかということを、点数にして自覚させられ、それが、そのまま、
「その人の評価となる」
というのが、どこか理不尽な気がするのだった。
大学に入れば、発想も行動も自由となり、そこから、自由な発想がどれだけ出てくるかということが、教育となってくる。
就職に際しても、正直、ずっと勉強してきたことが生かされるわけでもない。
「ひょっとすると、学生時代に勉強してきたことと、まったく違うことを仕事としてしている人もかなりいるだろう」
ということである。
その証拠に、松下だって、学生時代には、文系をやってきて、大学に入っても、商学部だったのだ。
それが、最初こそ、営業志望で来たものが、
「会社の事情」
ということで、いきなり、コンピューターを扱う、システムの仕事に転属させられた。
正直、パソコンも、エクセル、ワードを少々扱えるという程度の、普通のサラリーマンだったものが、急に、
「システムに配置転換」
と言われても、ピンとくるものでもない。
最初は相当戸惑った。研修にも行かされたが、
「どうしていまさらシステム?」
と思ってしまい、勉強するのも大変だった。
確かに、まったくの畑違い、それでも、
「何もないところから、新しいものを作り出す」
という意味での楽しさと、単体テストをして、自分が作ったものが動いたのを確認できた時の嬉しさは、それまでに感じたことのないものだったということは、間違いのない事実だったのだ。
そんなことを考えていると、
「絵画において、大胆に省略することがある」
ということを真剣に考えてみようと思ったのも分からないわけではなかった。
実際に、今、
「この人には死んでもらいたい」
と思うような人がいないわけではない。
今から思い返すと、学生時代にも、一人は必ず、その時にいたように思うのだ。
逆にいえば、
「仮想敵」
とでもいえるような相手がいなければ、生きていくうえでの、張りのようなものがなければいけないのではないかと考えるのであった。
仮想敵という言葉はいささか大げさではあるが、人間に対して、好き嫌いがあるのは当然のことで、それを悪いことだと思い、自分の中だけで解決しようとしてしまうと、きつくなってしまうのも、無理もないことだったりするのではないだろうか?
「自分のストレスを発散させるために、人を殺した」
というのであれば、動機としてはいささか厳しいものだが、抑えようとしてしまうと、緊急避難ではないが、
「本当に誰かを殺めないと、自分の中で耐えられなくなり、自分が死んでしまうことになる」
ということになりかねない。
そうなると、本当に殺さないまでも、自分で思うだけであれば、それは問題ないのではないだろうか?
そこまで否定してしまうと、地獄は人だらけになってしまい、天国に人間はいなくなる。「地獄に堕ちた人間は、決して、人間として生まれ変わることはできない」
と言われていることが本当であるとするならば、そうなってしまっても、仕方がないことなのだろう。
それだけ人間は、
「一生のうちに、最低でも一人は殺したいと思う人がいても、無理もないことだ」
といえるのではないか。
だから、あれだけ毎日のように、殺人事件が発生し。理不尽にも殺されてしまった人がたくさんいることだろう。
それでも、生まれてくる人間が、極端に減っているわけではない。
ということは、
「前世が人間ではなかったという人も、結構いるのかも知れない」
と言えるだろう。
そうなると、動物も何かのきっかけで、人間として生まれ変わることができるのだろう。
だが、そうなると、この世で殺人を犯してしまう人の中に、元々前世が人間だったという人の割合がどれだけいるだろうか?
そもそも、前世が人間以外だったという人の割合が分からない限り、比較にはならない。
少なくとも、人の前世が何であったかということが分かってもいないのに、割合など、考えようもないというものだ。
だが、あくまでも考え方としてだけ存在していても、それは問題のないことであって、勝手な想像ではありながら、自分がどうだったのか? ということに思いを巡らせていけば、分かってくること、感じられることも出てくるに違いない。
そんなことを思っていると、テレビで言っていた、
「画家というものは、大胆に省略するということもある」
という意味もおぼろげに分かってくるのではないだろうか?
もちろん、省略するということが、そのまま。
「抹殺する」
ということに繋がるのかどうなんかということと、単純に結びつくことではないだろう?
そんなことを考えていると、実際の絵を描いてみて、大胆に省略する部分があるのかどうなのか、考えてみた。
自分は、
「絵が苦手だ」
と思っていたので、どこまで描けるか分からなかったが、やってみると、意外に描けているのにビックリした。
全体を見渡して描けているようで、そこは、自分でも理解していた。
そもそも、
「大胆に省略する」
というのも、全体を見渡したうえでのバランスの問題なのではないかということが大切なのだと思うからだった。
そう、芸術というのは、バランスが大切である。
芸術というと、絵画だけではないのだが、特に絵画にはそう思えるふしがいっぱいあるといってもいいだろう、だから、バランスが絵画の魅力の根底を作っているといっても過言ではないのではないだろうか?
絵画にとって、重要なものに、バランス以外としては、
「遠近感」
というものがあると思っている。
バランスとしての例として、例えば、風景画の中でも単純ともいえる、
「水平線を中心にした、海と空を描いた」
ということにしようか。
そのために正面から、被写体として、海と空を見渡した時、水平線が、キャンバスのどのあたりに来るかということをまず、考えるであろう。
「普通であれば、大体、空が7とすれば、海の部分が、3くらいではないだろうか?」
と、感じたとしよう。
しかし、今度は、股の間から、つまり、日本三景の天橋立で見るような。
「股覗き」
というやり方で、逆さに見たとすればどうなるだろう?
作品名:自由と偽善者セミナー 作家名:森本晃次