自由と偽善者セミナー
プログラムすべてに一個づつ、さすがに設計書を作ることは難しいが、仕様書を設計書代わりにするのも一つの手かも知れないが、あくまでも、自分が作ったものだけを自分の製作物だと思っているので、作品や、設計書は自分のものである。だから、設計書はプリントアウトして、自分ようのバインダーに閉じていたのだ。
そんな松下を他の同僚や上司はどう見ていたのだろう? まるで、仕事の虫のようには見えるが、本人はそんなことはなかった。
ほとんど、自己満足のためにやっていることで、別に承認欲求を満たそうとしていることではかった。
設計書は別に人に見せるものでもないし。開発したプログラムを見てもらいたいということでもない
だが、本来であれば、システム全体の設計書を残すのが当たり前だと思うが、そこまでしているわけではない、もし、この会社がソフト会社で、納入先は別会社で、会社対会社としてシステム路組んでいるのであれば、最初の企画書から仕様書、さらに設計書までの資料と、さらに、使用するファイルやデータの項目等の説明書までつけて、一式を納品するというのが、当然のことだろう。
実際に納品しても、それを誰かが見るというわけではないのだろうが、納品後、何かがあった時、その解決策のためには、仕様や設計書を見れば、他の人が対応しても、対処できるかも知れないという意味で、設計書等の存在は作成した方とすれば必要となるのだった。
しかし一般人が、何かの家電でも購入すると、そこに必ず、取扱説明書が入っているのと同じで、頼まれて、その会社独自のシステムを構築したのであれば、それは当然納入の義務があるといってもいいだろう。
それができないのであれば、ソフト会社としての信用もないのではないかと思うのだった。
だが、松下の会社は、会社自体がソフト会社ではなく、部署がシステム部だということもあり、いわゆる、
「エンドユーザー」
として、自社のシステムを自分たちで開発している部署だった。
とはいえ、基幹業務の大まかなところを最初に作ったのは、最初に依頼したソフト会社だった。
だから、大規模なシステム変更だったり、新たな新規業務をシステムに織り込むなどという、大規模プロジェクトでは、もちろん、開発したソフト会社にお願いし、こちらでできる部分はシステム部が賄い、各部署からの要望や操作方法の提案などの実際に扱っている部署から吸い上げて、それを、とりまとめ、ソフト会社へ、改修や、新規構築をお願いする。
その時に、工数や予算などという企画的な会議を行うことで、会議が頻繁することもあって、大規模プロジェクトともなると、時間も予算も掛かるのだ。
最近は、そこまで大きな改革や、新規事業への参画などはなかった。
どちらかというと、政府の決定事項、例えば、消費税の変更であったり、表記義務などの問題があったりした時、マイナーチェンジ的なものが、ちょこちょこある程度で、ある意味落ち着いていると言っていいだろう。
だから、最近は、結構定時に帰宅することができる。
「まあ、定時に帰れるくらいがちょうどいいんだろうな?」
と思って、ふと、自分の毎日を思い返してみると、やはり何か物足りなさを感じていた。
確かに、
「三度の飯よりも、仕事の方が楽しい」
などという時代はプログラマーの時代にあった。
それは、達成感と充実感を一緒に味わっていたからで、その思いをずっと感じていたかったことで、仕事が承認欲求を満たしてくれていたのだ。
充実感も、達成感も、プログラマーでは、同時に満足できていたのだが、仕様を書く立場のシステムエンジニアともなると、何かの達成感が足りない気がしていた。それが、達成感なのか、充実感なのかが分からない。分からないことが、システムエンジニアの仕事に対して、満足できない自分がなぜなのか分からないという、ストレスを生んでいるのかも知れない。
それは、システム関係だけに限ったことではない。スポーツにしてもそうだろう。
スポーツ選手というのは、選手生命は基本的に短い。
野球選手などは、40歳が一つの境目であろう。
もちろん、それ以上できる人もいるが、選手によっては、30歳くらいまでがピークで、そこから伸び悩み、さらに無理をしてけがをしてしまい、そのまま現役を続けられないということだってありえるのだ。
そうなると、引退の二文字が頭をちらつき始める。
いくらプロにまで進んだとしても、ある程度の成績と、ネームバリューがなければ、コーチなどの指導者として残るのは難しい。
そうなると、引退後は第二の人生ということになり、中には球団職員という形で、本当の、
「縁の下の力持ち」
のような仕事をせざるを得ないようなことになりかねないだろう。
つまり、マネージャーだったり、広報だったり、スカウトという仕事もあるだろう。
それまで、一応プロの選手としてのプライドもある。そこまでの成績が残せなかったとしても、それまでは、野球界においては、それなりに、
「勝組」
だっただろう。
プロの甘くない世界では、鳴かず飛ばずだったかも知れないが、
「地元の期待」
などと言われて、プロ野球の世界に足を踏み入れた人なのだ。
ただ、最近は、昔と違い、育成選手という形で入団することもあり、育成の中から、エースになったり、球界を代表するような選手になることもある。だから、入団の経緯よりも、選手として、どのような活躍をするかということが大切なのである。
そんな選手も引退する時は、静かに引退する人もいれば、華やかに、引退試合をもよおしてくれるような人もいる。
それはどの世界でもそうだ、スポーツに限ったことではない。ただ、どうせ辞める時がくるのであれば、
「華やかなセレモニーの中で引退したい」
と思っている人がほとんどだろう。
「自分のために、まわりが企画してくれて、自分のためだけに、自分のファンが集まってくれる」
そんなことを考えると、
「野球選手冥利に尽きる」
といえるだろう。
そこまでいけば引退して、その選手はコーチなどのスタッフになり、
「将来は監督の椅子」
が待っていたり、
「いくつかの放送局からオファーがあり、解説者としての道が用意されることになるだろう」
という道が待っている。
だが、この間まで選手だった人が、今まで一緒にやっていた選手の活躍を見て、身体がうずいてきたりはしないのだろうか?
そんなことを考えていると、
「選手として、本当に燃え尽きたんだろうな?」
と解説を普通にできる人には感じさせられる気がするのだ。
ただ、引退した選手でも、引退後にどういう仕事をするか、ピンからキリまである。やはり、
「野球関係の仕事に携わっていたい」
と思うのは当たり前のことではないだろうか?
ただそれも、どこまで考えるかというのは、その人の微妙な心境によるかも知れない。
もちろん、野球関係の仕事に残りたいと思ったとしても、実際に、雇う側が採用してくれないと、当然敵わないことであり、有名選手だったからといって、皆が監督に推すようなことはないだろう。
作品名:自由と偽善者セミナー 作家名:森本晃次