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自由と偽善者セミナー

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                 芸術家志向

 高校時代に好きだった絵であるが、絵を描いているうちに、
「自分って、芸術家に向いているのではないか?」
 と感じるようになった。
 それは、絵が出来上がることにおいての、
「新しいものを作り上げる」
 という発想だけではないような気がした。
 どちらかというと、プログラマーに似た発想があるのは、
「理論づけて、考えることができるからだ」
 といえるからではないだろうか?
 絵を描いていると、
「目の前に見えることを、ただ描写しているだけだ」
 と最初は思っていた。
 一種の、模写ということなのだろうが、あくまでも、面倒臭いという意味で、
「省略できるところは、省略して書こう」
 と感じたことだった。
 確かに、写っていないものを絵に描いてしまうと、
「ウソを描いた」
 ということになるのだろうが、
「省略というのは、ウソをついているわけではない」
 といえるだろう。
 つまり、すべてをそのまま描いてしまうとオリジナリティがなくなり、しかも、ウソをつくことが嫌いなのは、
「納得がいかないからだ」
 と思っているのであれば、理由が、
「面倒臭い」
 ということであっても、人のマネが嫌いだということに結びつくのであれば、それはそれで悪いことではないと思うのだった。
 そういえば、以前、推理物のドラマを見た時、
「自称:画家」
 という人が出てきて、その人が犯人だったのだが、彼が犯した犯罪が、
「妻殺し」
 だったのだ。
 その時、刑事に、犯行は見破られたのだが、その理由について聞かれた時に答えた内容が印象的だったのだが、
「画家というのは、いつも目の前に見えていることがすべてだと思って描いているわけではないんだよ。時として、大胆な省略も必要なんだ」
 といっていたのだ。さらに、
「だから、私は気づいたんだ。私にとって、妻という存在が不要なものであることにね。だから、大胆に省略したまでのことだ」
 という、言い訳にならないような言い訳に、刑事たちは、何ともいえない、やるせない表情になっていた。
 しかし、その人たちの顔の中には、やるせなさが、犯人に対しての怒りというわけでもなく、気の毒なイメージにも見えたのだ。
「ひょっとすると、刑事たちの中にも、同じように、何かを大胆に省略したいが実際にはできないものがあるということを、ずっと感じながら、どこかやるせなさというものを抱えて生きているのではないか?」
 と感じられたのだった。
 やるせなさというものと、実際に省略するものが、人間だから悪いというのであり、
「それが人間でなければいい」
 という問題なのだろうか?
 見ていて、松下はそんな風に感じたのを思い出していた。
 そういう意味でいけば、
「誰にでも、いなくなってほしい」
 と思う人は、一人や二人はいることだろう。
「罪に問われてしまう」
 という思いがあるから、やらないのか?
 それとも、
「人を殺してはいけないというのは、常識である」
 というモラルからそう思うのか。
 下手をすると、宗教的なイメージで、
「地獄に堕ちるのが嫌だから」
 という人もいるだろう。
 だが、動機は人それぞれ、その人の立場や、状況によって、
「殺さなければ、自分の命が危ない」
 という人であれば、ある意味、殺人も致し方がないことかも知れない。
 ただ、それも、
「他にまったく方法がなければ」
 という条件付きであるが、それを考えずに、
「人を殺めること、そのすべてが悪いことだ」
 というのは、本当にいいことなのだろうか?
 しかも、
「自殺も、自分を殺すことと同じなのだから、それすら許さない」
 ということであれば、
「これほど厳しい戒律もないものだ」
 といえるのではないだろうか?
 そうでなければ、自分が殺されたということを考えると、結局、
「誰かが死ぬことになるのだ」
 ということになり、それがなぜ自分なのかと考えて、
「殺される前に殺す」
 と考えることの何が悪いというのか?
 考えてみれば、日本の刑法にも、
「違法性の阻却」
 というものがあり、人を殺しても罪に問われない場合もある。
 さらに、犯罪者が、精神薄弱であったり、精神喪失状態であれば、
「無罪と処す」
 ということもあるのだ。
 これは、被害者側にとっては、やりきれない問題だと言えるだろう。
 被害者側にとってみれば、
「そんな精神異常者をのさばらせておくから、こんなことになるんだ。殺された方はたまったものではないではないか?」
 と言いたいはずだ。
 確かに、刑事では無罪となっても、民事の方で、その監督者である者に対して、賠償責任は発生することになり、下手をすれば、
「一生を通して、償っていかなければならない」
 という意味で、実質、その犯人、犯人に関係している人たちは、
「人生が終わってしまった」
 といってもいいかも知れないということになりかねない。
 前述の、
「違法性阻却の事由」
 というものであるが、こちらは、基本的に、
「相手を殺さなければ、自分が死んでいた」
 といえる案件である。
「正当防衛」
 あるいは、
「緊急避難」
 というのが、これに当たり、正当防衛というのは、相手に殺意があり、こちらを殺そうとしている状況において、こちらには殺意はなかったが、抵抗した時、相手が死んでしまった場合などをいい、確かにこれでは、相手を殺しても、罪になっていたのでは、やってられないというものだ。
 緊急避難というのは、船が沈んでいる時、救命ボートに乗り込んだ人が、ちょうど、その時定員ちょうどが乗っていたとして、他の人が船に乗ろうと迫ってきた場合、
「もう一人が乗ると、確実に沈んでしまい、全員が死ぬことになる」
 ということが分かっていた場合、乗り込んでこようとする人間を殺してしまったとしても、やむを得ない場合ということで罪にならない。
 そういうものを、日本の刑法では、
「違法性阻却の事由」
 ということで、殺人とはならないということになるのだった。
 前述のドラマは、だいぶ前の話で、自分もまだ高校生だったこともあって、
「人間を、まるで絵画のように、簡単に省略したり、殺したりなど、できるはずなどないに決まっているのに、まるで、人殺しを肯定するようなドラマを作るなんて」
 と感じたが、今もし、同じドラマを見たとすれば、
「殺したいと思う人がいれば、殺してしまう感情も分からなくもない」
 と思うようになった。
 それは、まだ高校生だった時には、
「世間の荒波を知らなかったからなのか?」、
「それとも、何か他にあるのか?」
 と思っていたが、今思い出せば、
「生きたいと思っている人が、不治の病に侵されていて、生きることができない」
 などという、そんな人もいるのを考えると、人の命を粗末にするということが許されることなのか? と考えてしまうと、決して許されることではないと考えるのだ。
 だから、単純に、
「人を殺す」
 などということを、簡単に考えてはいけないのだと思うようになった。
 もちろん、人を殺してはいけないということは、当たり前のこととして考えてはいたが、それを、
作品名:自由と偽善者セミナー 作家名:森本晃次