自由と偽善者セミナー
スズメバチに刺されると、一度目は免疫ができる。しかし、二度目に刺されると、その免疫がハチの毒に反応し、アレルギー性のショックを引き起こす、それが、
「アナフィラキシーショック」
であり、かなりの確率で死に至るというものであった。
そういう意味で、ナッツ類や、乳製品、ラテックス、フルーツなどのアレルギーは危険だと言われるのは、このようなアナフィラキシーショックを引き起こすからである。
算数というものを、最初が理解できなかったことで、なぜか嫌いにはならなかった。
ただ、
「理屈が分からない」
という感覚があるだけで、実際に理解しようとしてもできないことから、先生に相談したのに、あそこまで露骨に、嫌な顔をされ、面倒臭いと思われてしまったのだとすれば、それは、とんでもない話であった。
だから、
「罪を憎んで人を憎まず」
の逆で、
「人を憎んで、算数を憎まず」
と感じたのだ。
小学生の低学年の頃から、まるで悟ったかのように、人を嫌いになるということもあまりないだろう。
しかし、大人から見て、
「どうせ、相手は小学生の低学年。まだまだ洟垂れ小僧なんだから、真剣に打て合うことなんかないんだ」
と思われているとすれば、これほど、憎々しいと思うこともないだろう。
子供なので、そこまで大人のような怒りを表に出すことはできないだろうが、それだけに、内に籠める気持ちは大きいだろう。
まだ、思春期も反抗期も、遠い未来に残しながら、すでに内に籠める思いがあったなどというのを考えると、自分が神経質なのではないかと思っていたが、大人になるにつれて、
「こんな感覚は何も自分に限ったことではないのではないだろうか?」
と感じるようになったのだった。
少なくとも、この時から、この先生だけは信じられなくなった。さすがに、この人だけが信じられないといって、先生全員、さらには、大人というものを信用できなくなるほど、自分もまだまだ経験があるわけではない。
それを思うと、次第に、算数を受け入れてもいいかも知れないと思うようになり、
「一足す一だって、そんなものだと思えばいいんだ」
ということを自分で納得できる気がしたのだ。
逆にいえば、あの先生が、面倒臭そうに言ったことが、皮肉にも、
「反面教師」
ということになり、自分に先生に逆らうということがどういうことなのかというのを教えてくれたような気がしたのだ。
「先生がそう言うんだったら、その通りにしてやろうじゃないか? もしできなかったり、失敗すれば、その責任はすべて先生にあるんだ。それを公表してやればいいんだ」
と、
「子供の特権」
を利用してやろうと思ったのだ。
それくらいのことをしても、
「あの先生にだったら、バチは当たらないさ」
と思ったくらいだ。
要するに、
「騙されたつもりで」
というくらいにKんが得た方が、気が楽だし、そう思うことで、相手に対して感じていた怒りが、反面教師という言葉で和らいでくるのを感じるのだった。
先生というものが、今の時代では、
「教師ほど大変な仕事はない」
と言われている。
特に、一日平均の労働時間が10時間などという恐ろしい話を聞いたものだ。
しかも、残業手当などないだろうし、相手が生徒なので、
「自分のペースで仕事をする」
などということはできっこない。
しかも、反抗期や思春期だと、トラブルを起こせば、出てくるのは、警察や、父兄。そしてPTAである。
どれほど理不尽なものなのかということは、分かっている。
「先生も大変だ」
ということで、同情もするのだろうが、小学生にそんなことが分かるはずもない。
親からすれば、
「教育のプロである先生に預けている」
ということで、何かあれば、クレームを入れるのが当たり前だと思っている人が大半である。
ただ、ある日、子供向けのマンガを見た時、
「何かいいことをすれば、ご褒美がもらえる」
というもので、一つは、
「お母さんのお手伝いをする」
というものであったが、もう一つは、
「勉強を頑張る」
というものであった。
これを見た時、当たり前のことだと思っていたはずの、
「勉強をする」
ということが、褒められることだったんだと感じたことで、急に眼からうろこが落ちたような気がしたのだ。
今まで、勉強はしないといけないと思っていたから、何となく胡散臭く思えてきたのだが、すれば褒められるのだと思うようになると、
「一足す一が二」
というのも、受け入れる受け入れないではなく、
「このことを基本に算数に入っていけば、そのうちに理解することができる事案にぶつかるはずだ」
と考えたのだ。
だから、勉強をするということは、
「そういう疑問に感じたことを理解できるための道具を見つけることだ」
と考えられるようになると、勉強するのが楽しくなるのではないかと思えたのだった。
それが、勉強をすることへのトラウマの解消だったと思う。
そもそもトラウマと思っていなかったということの方が問題で、漠然と、
「やらされているということで、反発しているんだ」
と思っていると、やはり、算数でスタートラインにも立てなかった理由が分かってきたような気がしたのだ。
しかし、褒められるということが、いいことなのだということに繋がってきた時、自分のわだかまりも解けたような気がした。
そして、そのわだかまりが、トラウマだったのだと思うと、どこか、気が楽になってくるという少しおかしな感覚に見舞われてきたが、それも、どこかおかしな気がしてきたのだった。
そして、
「算数の呪縛」
から解き放たれると、今度は、堰を切ったかのように、算数が面白くなり、自分で公式を考えるようになった。
これは、古代の人たちが思いを凝らし、算数の公式を考えてきたのだろう。
アルキメデスやピタゴラスなどの数学者が求めてきた問題。それは数学だけに限らず、物理学、科学にも通じるものだった。
それを考えると、算数というのを、基本、整数と考えるならば、
「決まった間隔で並んでいるものなのだから、その法則というのは、無限に存在するのではないか?」
と思えたことだった。
次の瞬間に起こりえる可能性が無限にあるように、算数の法則など、無限に存在する。
そこに、倍数であったり、約数であったり、さらには、素数などという考えができてきたのも、数字というものが、規則的に並んでいるからである。
だから、形として時計ができたり、時をきちんと刻んでいるわけではないのに、幾何学模様としての芸術ができあがっているではないか。
建築家や芸術家が、数学的なことを考えていたわけではないだろう。
ただ、
「芸術というものを、追い求めた」
というところから考えて、
「求めた答えが一つであるが、その可能性は無限である」
と、言えるのではないだろうか?
数学には、答えが一つではないものもあるし、
「解なし」
というのも存在する。
中学生の時に習ったが、どういうものだったか忘れてしまった。先生も、
「そういうものが存在する」
という一つの例として出しただけで、その問題について言及することはなかったのだ。
作品名:自由と偽善者セミナー 作家名:森本晃次