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自由と偽善者セミナー

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 日本でいえば、織田信長などの名前が挙がるのだろう。
 しかし、問題は、
「英雄と呼ばれる人は、そのほとんどが、一代で終わっていて、さらに、本人の運命も、部下に殺されたり、という悲惨な目に遭った人がほとんどではないだろうか?」
 といえるだろう。
 しかし、そういう意味では、ジンギスカンなどのように、強大な国家を自分の代で作り上げ、さらに、次代に受け継いだ英雄もいるだろう。ジンギスカンを世界三大英雄から外さない理由はそこにあるのだろう。
 しかも、彼には、
「義経伝説」
 まで絡んでいる。
「義経は、衣川で自害したことになっているが、実際には、大陸に渡って、ジンギスカンになった」
 というウワサである。
 信憑性はかなり薄いが、伝説になるくらい、殺すには惜しい人間だったのだろう。
 そういう意味で、
「明智光秀」
 もそうだったのかも知れない。
 本能寺の変の際に、森蘭丸が、信長に、
「ここは我々が防ぎますので、殿はお逃げください」
 と言ったにもかかわらず、
「光秀ほどの男だ。虫一匹逃げられぬわ」
 と言ったとされているほど、信長から信頼され、それ以上に恐れられていたのかも知れない。
 そんな光秀なので、
「山崎の合戦で、あんなに簡単に敗れて死んだというのは、あまりにもひどい」
 ということからなのか、家康に仕えた僧の中に、
「南光坊天海」
 という相談役のような僧がいたというが、彼が、
「明智光秀の生まれかわりだ」
 と言われているようだ。
 義経が、ジンギスカンになったという伝説に似ているではないか?
 ただ、同じような話で、明治時代、ロシアの皇太子、のちのニコライ二世が、日本に表敬訪問に来た時、ちまたでウワサされていたのが、
「死んだはずの西郷隆盛が、実は生きていて、ロシアに逃れ、復讐のために、戻ってくる」
 というものであった。
 そこで警備にあたっていたはずの警官の一人がそのウワサを信じ込んでしまって、ニコライ二世を襲撃するという、
「大津事件」
 が発生したのだ。
 それが、まだ、日清戦争前の、日本が絶賛、
「富国強兵」
「殖産興業」
 の真っ最中だった頃だった。
 何とか、国際問題にならずに、かたはついたが、一歩間違えれば、
「日露戦争」
 になっていた可能性がないとはいえないのだった。
 実際に、日露戦争になっていれば、下手をすれば、朝鮮半島を含めて、
「ロシアの属国になっていた」
 という可能性だってあるのだ。
 しかし、何とか丸く収まったおかげで、日本は助かった。もし、属国となっていれば、世界の歴史ははるかに変わっていただろう。
 日清戦争も、日露戦争もないわけで、日本がアジアで、覇権を争うこともなかっただろう。
 逆にいえば、連合国の端くれではあっただろう。ただ、ソ連から独立できていればの話ではあるが、できていなければ、日本は、社会主義国家として、連邦に組み入れられていたことだろう。
 それを思うと、あの時戦争にならなかったのが、よかったのかどうかであるが、歴史というものに、
「もし」
 というものは存在しないのであろうが、存在したとすれば、それをどう考えればいいというのだろう?
 そんな英雄伝説を、実はこのセミナーでは、教えているというよりも、
「自分たちで考えて意見を出し合う」
 ということが行われていて、
「答えは自分たちで考える」
 というやり方がここでは基本なのだ。
 そんなセミナーでは、もちろん、帝王学はもちろんのこと、会社での自分の立ち位置を考えるなどというのを、人と話すことで、自分たちの中で、何かを見つけていくという考えが基本になっている。
 だから、誰かが講義をするというよりも、
「相談したり、自分たち同士で、向上していく」
 という考えが、強いのだった。
 ただ、中には、答えを求めたい人もいる。
 そういう人には、講師のような人がいて、話を聞きながら、助言を行うというコースもある。
 それは有料であり、ただし、
「お金を取るのは、営利のためだけではなく、ただでの教えというのは、それだけのものでしかない。だから、あくまでも、ステータスのようなものだ」
 といっているが、それこそ、
「偽善ではないか?」
 と最初に考える。
 すると、
「そういう考えも否定はしませんが、偽善であると思い込むことは、自分の視野を狭めることで、自由な発想こそが、ここのモットーであるということを、お忘れなきように」
 というのだった。
「なるほど、まさしくその通りだ」
 というのも、当然のことであって、
「ここの基本は自由であり、自由こそが正義だ」
 と考えている。
 しかし、
「これこそ、きれいごとではないか?」
 と思われる。
 きれいごとこそ、偽善であり、この時に、まず、偽善と疑う人が出てきても無理もないだろう。
 しかし、そこまで言い切れるほど、疑えるのであれば、何もセミナーに参加することもないはずである。
 偽善ということをいかなものかと考えると、
「自由と背中合わせではないか?」
 と思えるのだった。
 そうなると、帝王学を学びに来ているのは、
「偽善こそ、帝王学」
 として、考えている連中がいるからなのかも知れない。
「そもそも、帝王学というものがどういうものなのか?」
 ということである。
 基本的に、創始者は、何もなかったところから、新しいものを生み出して、それを次代に伝える。ただ難しいのは、
「次代に伝えられるかとうか?」
 ということであり、ほとんどの英雄が、
「一代で終わっている」
 と言われるゆえんである。
 ただ逆に、日本人はm
「判官びいきだ」
 と言われる。
 九郎義経が、
「判官」
 という職にあったことから、
「判官びいき」
 と言われるのだが、彼は兄の怒りを買って、あるいは、恐れられて、いわゆる因縁を吹っかけられ、追われることになった。
 そして、奥州平泉の衣川の館で、殺されることになる。
 もっとも、その後、
「ジンギスカンになった」、
 あるいは、
「各地に落ち延びてその土地に伝説を残した」
 ということで、各地に伝説が残っている。
 そういう意味で、
「鎌倉幕府関係者に滅ぼされたり、流されたりした人間は、結構全国に伝説が残っている」
 といってもいいだろう。
 義経伝説もそうだが、
「承久の変」
 にて、流された後鳥羽上皇の伝説も、中国地方には結構残っていたりする。
 最近では、ミステリーで、これが恰好の小説のネタになっていたりするくらいだ。
「後鳥羽伝説」
 などと言われ、
「平成の名探偵」
 という誉の高い人が出てくる小説である。
 最近のミステリーを読んでいて、これは、本人のあくまでもの意見でしかないのだが、
「どうも、偽善者的な話が多い気がする」
 ということが言われているようだ。
 考えれば、
「何が偽善者なのか?」
 ということが問題なのだが、
「善というものに、本当も贋者もあるか?」
 ということであり、
「そもそも、贋者であれば、善とは言わない」
 ということであろう。
 ただ、だからこそ、
「善ではない、善というものを、偽善という」
 ということであるならば、
「偽善者」
作品名:自由と偽善者セミナー 作家名:森本晃次