自由と偽善者セミナー
監督も困っていることだろう。その横顔からは、屈辱感しか出てこない。少し怖い気がする。
実際に囲み取材になると、記者は、チクチクとした内容の質問をぶつけてくる。
「こんなにひどい質問をしていたんだ」
と、ヘッドコーチは、まるで自分が言われているかのように、我慢できない様子だった。
確かに質問のひどさはすごいものだが、それを自分がされるよりも、監督が矢面に立たされているのを見ると、どこか、後ろめたさがある。
それでも、監督は、
「そのすべての責任は自分にあります、選手もスタッフも一生懸命になってやってくれているのに、采配がうまくいかないのは、私の責任です」
というのを聞いて、まるで自分が監督から責められているのを感じたのだ。
そんなことを思っているうちに、今度は少し違った怒りのようなものが浮かんでくるのを感じた。
「何だろう? この思い」
と、彼は思った。
虚しさのようなものや、歯ぎしりをしたくなる屈辱感もあり、さらに、監督に対しての、苛立ちもあったりと、一度におかしな感情が浮かんでくるのだった。
これをどう表現すればいいのか分からないが、
「何かで、縛られているかのようだ。そして、ムチでしばかれているかのように思う」
と感じた。
一番、歯ぎしりというのが、直接感じたことかも知れない。
その歯ぎしりは、怒りを呼び、そこに屈辱感があることを感じさせられる。
「屈辱感など、選手の時代にも何度も味わってきたはずなのに、それとは違う屈辱感なんだ。そうだ、自分が直接の原因でもないのに、責められているというこの気持ち、これが苛立ちを呼ぶのだ」
と感じた。
しかも、監督は自分が悪いかのように謝罪している。見ている方はたまったものではない。何か、これこそ、
「偽善ではないか?」
と感じさせるものがあるのだった。
そもそも、
「偽善というのは、どういうことなのか?」
というのも分かっているわけではない。
監督だって、本当は違う気持ちなのかも知れない。
「俺の采配にお前たちがついてこれないからだ」
と思っていることだろう。
何と言っても、元々、スター選手で、チームの看板を背負ってきた人ではないか。
チームが勝てば、いつも自分がお立ち台。それが当たり前のようになっていて、記者もそのつもりだった。
チームが低迷した時は、彼がスランプだったり、したことが多かった。それを思えば、このチームは、いい意味でも悪い意味でも、
「彼のチームだった」
といってもいいだろう。
だから、最初は監督に就任した時は、こちらも歯ぎしりをするほど悔しかったのだが、次第に時間が経ってくると、今の偽善に見える態度が、最初から分かっていたようで、
「一歩間違えて、自分が監督になっていれば、あそこにいるのは、自分だったのだ」
と感じた。
「じゃあ、あそこに自分がいれば、何と答えるだろう?」
と思う。
きっと監督と同じ思いで答えることができるだろうか?
と思ったが、意外と平気ではないかと思えてきた。
考えれば考えるほど、あの場にいれば、
「自分は、そこまでイライラしないのではないか?」
と考えるのだが、それは、
「自分が最初から、偽善者だったからではないか?」
と感じたからである。
「偽善者というのが、どういうものなのか?」
ということを分かっているわけではない。
ただ、偽善者がどういうものなのか、
「いや、偽善者になりたい」
と感じるのが、どういう時なのか?
ということを考えるようになったのであった。
普通、偽善者というと、いい意味では感じない。
正直彼も、
「偽善者など腹が立つだけだ」
と思っていたが、逆にいえば、
「いなければいけない人」
というイメージが頭の中にあるのだ。
いわゆる、
「必要悪」
とでもいえばいいのか、そんな存在を必要とする人がいるから、必要悪という免罪符を持って、存在することができるのではないだろうか?
偽善者を必要悪だなどと思うなど、今までにはなかったことだ。
ただ、偽善者は偽善者でなぜか集まってくるもののようで、偽善者同士が会話をしていると、まわりは耐えられるものではないと思っているだろうが、本人たちは意外と平気なのかも知れない。
そんなことを考えていると、
「偽善者というものが、どうして人に目立たないようにして存在しているのか?」
さらには、
「思ったよりもたくさんいるんだ」
ということを思い知らされるのと、同じタイミングなんだ」
ということを感じさせられるものだった。
「必要悪だ」
と考えるのは、さらにステップが進んでからではないかと思うのは、それだけ自分が偽善者を意識し、
「ひょっとすると、自分も偽善者なのではないか?」
と感じたからだ。
確かに最近、監督を初めてして、まわりの皆が偽善に見えてきた。
選手のヒーローインタビューを見ていても、
「チームの勝利のため」
ということを、いつも言っている。
そう言わないと、自分が悪者にでもなってしまうと思われるからではないだろうか?
自分の時は、ヒーローインタビューの答え方のマニュアルのようなものがあったが、考えてみれば、そんなものがなくても、他の人のインタビューを見ていれば、分かるというものだ。
「皆、同じことしか言わないじゃないか? チームの勝利のためだったりである」
しかし、マニュアルとしてあったのは、それだけで、細かいことはなかった。
「どんな球を打ったのか?」
などということも、すべて正直には答えていない。
下手をすれば、相手、あるいは、スコアラーなどから、
「あの選手は、この球が苦手なんだ」
ということを、教えてしまいかねないからだ。
それくらいのことは、選手が分かっていると、マニュアルを作った人は思ったのか、それとも、そこまでマニュアル化するのは、選手に失礼だという認識なのか、ヘッドコーチは考えるのだった。
それはあくまでも、
「自分が、偽善者ではないのか?」
という疑いの目で自分を見つめているからだった。
三大〇〇?
松下が通い出したサークルに、前述の球団の、ヘッドコーチが通っていていた、松下は、あまり野球を見ないので、そんな人がいるなどと、最初は知る由もなかった。
どちらかというと、このセミナーには、元々、会社の幹部候補生に当たるような人が参加していて、中には。世襲や、同族企業の、
「英才教育」
に使われていた。
「帝王学」
といってもいいのだろうが、帝王学というと、どうしても、ジュリアスシーザーを思い浮かべてしまう。
かつての、
「英雄」
と呼ばれる人たちは、いろいろな人がいた。
「世界三大英雄」
として名前が挙がるのは、人によってバラバラだったりする。
その中で、ほぼ皆から選ばれるのは、アレキサンダー大王と、ジンギスカンだという。
「もう一人は?」
ということになると、
「ジュリアスシーザー」
「ナポレオンボナパルト」
の名前が挙がるだろう。
だが、英雄と呼ばれる人はもっとたくさんいる。パッと考えたところで、
「始皇帝」
「ハンニバル」
作品名:自由と偽善者セミナー 作家名:森本晃次