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自由と偽善者セミナー

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 最終的に、内部昇格だったのだが、その時に、スカウトの人が出した意見が、今回引退する選手への監督打診だったのだ。
 この時は、さすがにフロントは結構意見が割れた。
 かつて、スーパースターが監督になったとたん、球団史上初の最下位に沈んだからだ。
「彼にその道を歩ませるのは、酷ではないか?」
 という意見があったのだ。
 やはり、意見はひっ迫し、紛糾もした。なかなか決まらず、ずっと会議だけが進んだのだ。
 それも、水面下でのことだったので、知っている人は数少ない。マスコミも分かっていなかったことだ。
 ただ、毎日、首脳陣の会議は行われていて、皆の表情が憔悴しているようだ。それを見た、
「番記者」
 が、新聞記事に書いたこととして、
「フロントによる、毎日の小田原評定」
 という言葉だった。
 聞き慣れない言葉だったが、知っている人は、
「なるほど」
 と感じたことだろう。
「小田原評定」
 という言葉、果たしてどれだけの人が知っているというのだろうか?

                 ヘッドコーチの台頭

「小田原評定」
 という言葉、これは、
「かつて、豊臣秀吉が、天下統一の最中、四国、九州を平定し、後は、関八州に強力な勢力を持っていた後北条氏が、いまだに秀吉に従っていなかった時のことである」
 当時は、関東の抑えとして、親戚関係にあった、徳川家康、
「東海道一の弓取り」
 と言われた武将である家康が、後北条に対して、
「秀吉に従って、生き残る道を選び方がいい」
 と助言していたが、断固として、氏政、氏直親子は従おうとはしなかった。
 そこで、秀吉は大軍を率いて、後北条の立てこもる、小田原城を包囲したのだった。
 しかし、小田原城というのは、かつて、上杉謙信も、武田信玄も落とすことのできなかった、難攻不落の大要塞として有名だった。
 さすがに大軍であっても、簡単には攻城戦は仕掛けられない。
「城を攻める場合は、守る方の3倍の兵力が必要だ」
 と言われている。
 守る方は、攻めてくる相手に、いろいろな罠を仕掛けることができるからだ。
 当然、正攻法で攻めると、相当な被害を被るのは分かり切っていることである。
 だからと言って、守る方も、安心はできない。
 長期戦になってくると、兵糧が尽きてくる。食べ物、武器弾薬の補充ができないのだ。
 どれだけ持ちこたえられるかということと、相手が諦めて、攻めるのをやめて、引き下がるのを待つしかないのだ。
 しかし、秀吉は今までの戦法から、一気に攻めて被害を甚大にするということはしなかった。
 小田原攻めでも同じことで、
「まだまだ、半年や一年は持ちこたえられるだけの、武器と兵糧はある」
 と、北条側では見込んでいた。
 このままだと、大軍で来ているだけに、士気にも影響してくるのが攻城側であった。
 そこで考えたのが、信長時代からのやり方の一つで、特に秀吉が得意とした、
「一夜城作戦」
 であった。
「籠城している間に、相手が攻めるのを諦めて、帰るだろう」
 と考えて、秀吉を舐めていた北条にとって、一夜城の出現は、秀吉が、
「腰を据えて、小田原を落とそうとしている」
 という決意の表れだった。
 さすがにそれを見た北条方は浮足立ってしまい、城内部の人間の中からも、裏切る者は出てくるというありさまであった。
 そんな状態に、さすがにまずいと想ったのだろう。
 北条親子は、すっかり、戦意を喪失してしまったのだ。
 これが、秀吉の狙いであり、これこそ、秀吉の天下統一ができた一番の理由だと言えるのではないだろうか? ある意味、
「信長との違い」
 というところが、
「秀吉には逆らえない」
 と当時の大名に思わせたのだろう。
 それに、
「なんといっても、百姓の出」
 というのも大きかったに違いない。
 それだけに、武将しか見てこなかった武士の、秀吉に対しての底知れぬ恐ろしさを感じさせられたのかも知れない。それまでは、
「百姓の子せがれが」
 といってバカにしていた相手にである。
 そんな秀吉に腰を据えられて攻められると、さすがに、籠城組も考え直さなければならない。
 いくら兵糧があるといっても、相手が諦めて帰ることを狙っているのに、腰を据えてじっくりを時間を掛ける覚悟だということが分かると、補給路を断たれてしまっている以上、完全に、兵糧攻めは分かり切っていることである、
「このままだと、飢え死にするのを待つばかり」
 ということで、小田原城内では、結論の出ない会議を続けるだけだったという、
 このことを、つまりは、
「いつまでも、結論の出ないことを、毎日繰り返して論議する」
 ということを、
「小田原評定」
 というのであった。
「このままいけば、確実に状況は悪くなるのだが、どうすればいいのかが、なかなか決まらない状態に使うのだろう」
 たとえば、大東亜戦争をどう終わらせるか? ということを政府が模索し、外交に任せながら、国民には、
「一億総火の玉」
 などと言って、国民全員に、
「玉砕」
 を迫るゆなものである。
 確かに、どう転んでも最悪にしかならない状態で、しかも、できることというとそれほどないというほど追い詰められている時に限って、
「小田原評定」
 が繰り広げられることになる。
 ということは、
「小田原評定を始めれば、運命は決したも同じなのだ」
 といってもいいだろう。
 そのプロ野球球団も、結局、監督を生え抜きに変えて、起死回生を狙った。そもそも、今までの監督で行くのが一番だったものが、体調不良では仕方がない。ということで、
「これからの監督になられる人が一番大変だ」
 と言われていたのはしょうがない。
 何と言っても、
「あれ以上の監督はなかなかいない」
 と言われていたので、元々、金のある球団でもないので、有名な監督を、生え抜きでもなければ、引っ張ってくることは難しい。
 この球団の生え抜きの選手は数人はいるが、なかなかコーチまではできても、監督というとなる人がいなかった。
 確かに、選手としてはそれなりの成績を残してはいたが、監督としては未知数で、
「下手をすると、選手と衝突しかねないほどの、個性派の人だ」
 と言われている。
「個性派とは言い方が穏やかだが、選手時代から、何かと、マスゴミからいろいろ言われていたり、
「指導者としては、なかなか厳しい」
 と言われていたのだ。
 それを思うと、
「監督としてできる人は、今の解説者であったり、他のチームのコーチをしている人に、監督としてきてもらうことは難しいだろう」
 というのが、フロントの考えであった。
 そこで、白羽の矢が立ったのが、引退間近の選手だったのだ。
 フロントとしては、
「どうせ、断られるだろう。引き受けてもらえたとしても、コーチか二軍監督くらいだよな」
 と思っていたのだが、何と、
「引き受けますよ」
 と、快諾されたのには、さすがにフロントがビックリした。
 実は、彼としても、引退が迫っている時から、監督の様子を見て、
作品名:自由と偽善者セミナー 作家名:森本晃次