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必要悪と覚醒

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 そんな親に、本当に親権を与えたままでいいのだろうか?
 親戚がいれば、どこかに訴え出ることもできるだろうが、その親戚も、この親子のことなんか、知らないという感じである。
 母親からすれば、
「コインロッカーに捨てずに、育てているだけマシだろう」
 と思っている、最低限と比較して、それが自分の優位性だと思うような親なのかも知れない。
 そんな親を親と言えるのだろうか? 子供はここまでくれば、完全に委縮してしまい、
「親から苛められることは、当たり前のことなんだ」
 と思うようになるのも、当たり前のことなのかも知れない。
 そんなことを思うと、親から逃れられない子供というのと、自分の子供の頃に、友達の家から、
「強制送還させられた自分」
 とかぶってしまう。
 今の子供ほどひどくはなかったが、自分でさえも、トラウマが残ったのに、虐待を受けていた子供というのは、それどころではない。PTSDくらいになっていても、まったく不思議ではないだろう。
 実際に、子供の頃に何があったか分からないが、大人になって、会社で倒れた人がいて、検査をすると、PTSDに罹っていたという人もいたのだった。
「きっと、児童の頃に受けた何かがトラウマとなって、今でも、残っているに違いないんでしょうね」
 と、神経科医がいうのだった。
 その人は休職することになり、入院まではしないが、通院で、いろいろ調べるということだった。その人自身、今から思えば、知り合った時から、
「あまり子供の頃の記憶はないんだよな」
 といっていたので、
「思い出したくないことがあるんだろうな?」
 と感じるのだった。
 子供の頃の記憶は、誰にだって、大なり小なり思い出したくないことがある。それを、
「黒歴史」
 といってもいい人も結構いるだろう。
 自分がやらかして、思い出したくないことや、外的要因によるもの、さまざまであるが、突き詰めれば、自分がやらかしたことも、元をただせば、外的要因だったということも少なくないと思えるのだった。
 特に物心ついたかつかないかの頃のことを、普通はなかなか覚えていないのだろうが、それならそれでいいはずなのに、必要以上に、
「思い出したくない」
 と感じるのは、それだけ、思い出したくないという思いが頭の中にあるからで、それが、トラウマというやつだろうというのは、大学の時に感じたのだ。
 畠山の黒歴史は、一番記憶に深く残っているのは、例の、
「強制送還事件」
 であろう。
 しかし、その事件の影に隠れて、それ以上のトラウマがあるような気がして仕方がないのだ。
 それは、明らかに、10歳よりも前で、本当にいつ頃だったのか、曖昧なのは、どうしても、強制送還の意識が深いからだろう。
「まさか、昔の記憶を思い出したくないから、強制送還事件が起きたのか?」
 と、余計なことを考えてしまうほどだった。
 子供の頃、幼児というか、児童の頃の自分の記憶の前に立ちはだかる思春期の頃の記憶。思春期の頃に味わった、屈辱というか、恥辱は、ひょっとすると、自分を、被虐の世界に誘い込み、一歩間違えれば、マゾヒストにさせてしまうだけの効果があったのかも知れない。
 そうならなかったのが、ひょっとすると、児童の頃の忌まわしい記憶が働いてのことであれば、この二つは、それぞれに、
「必要悪」
 としての存在感を示しているのかも知れない。
 そんなことを考えると、まるで天体の、
「月と太陽と地球」
 の関係のように思えるのだった。
 時系列で考えれば、真ん中にいるのは、
「思春期の強制送還事件」
 であり、その両端に、今の昔を顧みている自分と、もう片方に忘れてしまっている、児童の頃の記憶なのではないだろうか?
 それはまるで、日食か、月食のような出来事であり、それを思うと、
「忘れてしまっているのは、無理もないことで、ただ、逆にこの三つが重なる時ほど、見えなくなっていることが思い出されようとしているのではないか?」
 と感じるのだった。
 昔の記憶は確かに薄れていくもので、それは、まるで、夢から覚めてしまうと、夢の内容はまったく忘れているというのと同じである。
 起きてから徐々に忘れていくわけではなく、気が付けば忘れてしまっているのだ。
 目覚めた瞬間と、かなり時間が経ってからの記憶では、ほとんど違いはない。ということは起きていて思い出そうとするのは、時間とは関係がないということだ。
 つまり、夢の世界と現実とでは、それだけ結界が深くなっているわけで、その深さは。
「時間という概念は、この世にしか存在しないのかも知れない」
 と感じた。
 いや、異次元にも時間という感覚はあるのだろうが、それが、本当に時系列として並んでいるものなのかどうか分からない。
 実際に起こったことは、同じ時間に他でも別のことが起こっているわけなので、こちらに影響があることであれば、一歩間違うと、その事実は狂っていたのかも知れない。
 時系列が狂ってしまうと、そこから求められる事実も、本当に同じものなのかが分からない。
 だから、パラレルワールドが存在するとすれば、次の瞬間と、今の瞬間で少しでも違えば、無限に広がるというのは、そういうことなのだ。その無限がさらに、無限に広がるということになる。
 ということは、この世での繋がりを確認できるとすれば、それは、次の瞬間までだといってもいいのではないだろうか?
 だから、人工知能などというものはありえない。そんなものが存在すれば、
「無限というものを否定しなければいけなくなる」
 ということになるからだった。
「パラレルワールド」
 というものを否定できないのは、
「この世が時系列で繋がっているからだ」
 といえるからなのではないだろうか?
 まさか、トラウマの話から、こんなSFチックな発想になるというのも、我ながらすごいことだと、畠山は感じた。
 しかし、彼は元々、時系列であったり、時間や、算数などという、
「規則正しく並んだ数列」
 のようなものが好きで、時間が、そもそも、
「規則正しい数列」
 なのだから、当然のことである。
 しかも、畠山は歴史も好きで、
「歴史こそ、時系列で決まっているものだ」
 と考えていた。
 中学時代などは、名前をいじられた時、
「畠山って、鎌倉、室町時代の名門じゃないか。歴史が好きなのは、名前のせいなんじゃないか?」
 と言われた。
 実際には、時系列だったのだが、いろいろ説明するのが面倒くさくて、
「ああ、そうだよ」
 といって、ごまかしていたのだ。
 畠山は、高校時代の途中まで、
「歴史が好きだ」
 と言ってはいたが、
 それは、自分の中で、
「かなりムラのある教養」
 だったのだ。
 好きな時代と、ブラックボックスの時代が激しくて、自分の中で勝手に大きく三つに分けていた。
 それは、古代、中世、近代、現代に近いものであったが、どちらかというと、
「事件」
 というもので、
「歴史の結界」
 を差別化していたといってもいいだろう。
 事件というのが、大きく分けて、4つあった。事件、クーデターのようなもので、まずは、
「乙巳の変」
 である。
「大化の改新」
作品名:必要悪と覚醒 作家名:森本晃次