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必要悪と覚醒

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 正月に、子供の友達が来たからといって、むげに返すわけにはいかないということで、しょがないから泊めることにしたのを考えたのだろう。
「正月くらい、ゆっくり」
 と考えていたのだとすれば、そのあてが外れた親からすれば、溜まったものではない。
 しかし、逆にいえば、それでも、
「泊まっていってもいい」
 と言ったのは、相手ではないか?
 そんな言葉を自ら口にしたのなら、その時点から、可愛そうだという考えはおかしい。嫌なら断ればいいではないか? 自分たちの世間体を優先するから、自分たちの自由が利かなくなるんだ。
 自由を優先したいのなら、嫌われてもいいという気持ちになれないのか? だったら、自分たちが言った言葉に責任を持つべきだ。
 と考えたのだ。
 そういう意味では、自分の家庭のことを口にした親は、もし、
「泊まっていきなさい」
 と言ったはいいが、そのうちに後悔してしまったかも知れないのが、友達の親だったとするならば、
「どっちも簡単に認められるものではないが、うちの親の方が、まだマシなのではないか?」
 と思えてきたのだ。
 しかし、だからと言って、自分の子供を自分の考えのために、無理やりの強制送還は、ひどいとしか言えない。
 正直、この時のことがトラウマになって、大学時代には、友達のところを泊まり歩いたものだった。ほとんどが、田舎から出てきていて、下宿屋、学生アパートでの一人暮らしの友達ばかりだった。
「中学時代の反抗」
 と言えばいいのだろうが、それだけではない。
 確かに最初は、楽しかった。いろいろな話を夜を徹してするというのは嬉しいことで、何が楽しいといって、お互いに意見をぶつけ合っても、それを充実していると思えるからだ。
 明らかに反対意見を持っているといっても、それを相手に押し付けるわけではない、あくまでも、
「これが自分の考えだ」
 といって、話しているだけである。
 それが、親とは違うところだった。
 むやみに、人の意見を否定しない。そして、自分の意見を押し付けない。
 相手に意見を押し付けるというのは、最低でも、
「自分の意見が絶対だ」
 と思っていることが前提で、そして、そこに、
「自分は親なのだ」
 などという思いが重なると、間違いなき、相手に対しての、
「押しつけ」
 になってしまう。
 押しつけというのは、どうにもならないことで、特に、
「親」
 というものを強権として振り回されると、未成年である以上、どうすることもできない。
「子供は親から守られている」
 ということなのだろうが、逆に、
「子供は親から縛られている」
 といってもいいのではないだろうか?
 最近は、親が自分の子供だからといって、過剰に、
「所有物」
 と思うことで、幼児虐待であったり、迫害などという悲惨な事件が多い。
 児童相談所などというのもあるが、あくまでも、相手が親子であることに間違いないということを言われると、踏み込むことのできない部分が存在する。
 法律的には保護者であり、親権者である。子供の権利の保護を建前にされてしまうと、どうすることもできないのだ。
 そのせいで、毎日のようにどこかで幼児がひどい目に遭っているという事件があったり、ひどい時には、親が他の人から洗脳されていて、金を騙し取られることで、子供にもまともな食事を与えず、餓死させるという、悲惨な事件も起こっているではないか。
「親が、親になりきれない」
 というこんな時代、そんな親に忍び寄る悪魔。
「親と、その悪魔、どっちが恐ろしいのだろう?」
 と思えてくる。
 確かに、今の親であれば、こんな事件が結構あるのかも知れない。
 ニュースにならないだけで、親による虐待。ニュースになる悪魔のような所業。
 以前などでは、真夏の炎天下に、車の中に子供を置き去りにして、パチンコに行っていて、子供が、熱中症で死んでしまったなどという例が後を絶えなかった。
 普通なら、一度起こってしまえば、
「自分も気を付けないと」
 と思うことだろう。
「いや、それ以前に、そんなバカなことを自分がするはずない」
 と思うのだろうが、そんなことを考える人にも、ピンからキリまでいて、キリの方の人間は、自分がするはずないと思いながらもしてしまったことに、
「なぜなんだ?」
 と、この期に及んで、自分がしたことを分かっておらず、分かったとしても、すぐには自分がしたことを認められないという、そんな親だっていることだろう。
 そういう意味では、もっと恐ろしい親は、今に始まったことではない。
 昭和の頃に流行った、
「コインロッカーベイビー」
 などというのもあった。
 安易な気持ちでセックスして、子供ができて、中絶もできず、結局産んだはいいが、育てられないということで、コインローカーの中に放置するという事件であった。
 実際に社会問題となり、今ではそこまではないが、捨て子は今でも後を絶えない。
「赤ちゃんポスト」
 などというものが、物議をかもしたが、これも、難しい問題だ。
「命が大切ではあるが、抑止にはならない」
 という発想だったのではないだろうか?
「最悪、子供ができて、生活に困れば、赤ちゃんポストに入れればいいんだ」
 と、真剣にそう思っている人はいないだろうが、結果そうなるのだとすれば、世間は、そう考えたんだとしか思わないだろう。
「自分の都合のいい考えを、世間は、暖かい目で見てくれるはずなどない」
 ということを、いい加減分かる大人にならないといけないだろうというのは無理な考えなのだろうか?
 普通であれば、
「親は子供を危険から守るもの」
 というのが、当然のことであるはずだ。
 しかし、実際には、
「子供を守るべき親があてにならない」
 という家庭も結構あったりする。
「子供は親が産んだから、生きていられるんだ。子供を管理するのは、親の特権だ」
 と思っているのだろう。
 本当は、
「特権ではなく、義務」
 なのだ。
 特権などと思っているから、子供を束縛したり、虐待してもいいのだと、まるで、所有物だと思っているのだろう。
 そんな親に限って、人のいうことを聞かない。
「ひょっとすると、自分が子供の時代も同じような迫害を受けていたり、苛めを受けていたりして、引きこもりだったのではないだろうか?」
 と勘ぐってしまう。
 さすがに、他人が親の過去のことを探るわけにはいかない。
 かといって警察や児童相談所に連絡しても、警察では、
「何かが起きてからでないと、本格的に動かない」
 さらに、自動相談所などは、やってきたとしても、親から門前払いされてしまうと、家に入り込むこともできない。とにかく無力だといっていいだろう。
 そんな状態なので、親もやりたい放題である。特に、家族環境などを調べてみれば、怪しいことは一目瞭然のはずだ。
 特に、母親に愛人がいたり、その愛人が、遊び人だったり、チンピラだったり、ヒモだったりすることもある。そうなってしまうと、子供は、ほとんど放置状態だ。
 それよりも、
「あんたがいなければ、もっと楽に生活できて、彼に貢げるのに」
 などと正気の沙汰ではないことを、ほざく親だっているだろう。
作品名:必要悪と覚醒 作家名:森本晃次