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必要悪と覚醒

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 と思って時計を見ると、
「まだ、5分しか進んでいない」
 という事実を見て、驚愕してしまうことだって、今までに何度となくあったことだろうか?
 そんな経験を何度もしているのに、そんな状況に陥った時、どうしていいのか、頭にその方法が浮かんでこないし、感覚を、錯覚であっても、変えることはできないのであった。
 そんなことを考えていると、気が付けば、目が時計に向かっている。時計を見ていることに意識がないくせに、いつも時計の針を見た時、ハッとするのだった。
「ああ、また時計を見ている」
 と、その時、5分しか経っていないというのも、お約束だった。
 時間に余裕のある時というのは、どんなに短かったり長かったりする時間であっても、実際には、5分という時間が、自分の中でのキーポイントであったり、結界のようなものなのかも知れない。
 ということは、その日、午後、4時間あったわけだから、
「約50回近くも、ハッと我に返り、時間を気にしたということになるのだろうか?」
 と考えたが、
「いや、そんなことはない。確かに、無意識に感じることもあるだろうが、気が付いて時計を見たという自覚は、正確な数は憶えていないが、あったとしても、10回がいいところだと思う。その5倍も本当はあったのだとすれば、自分の錯覚が甚だしいということなのか、それとも、5分というのが、実は違っていて、5分単位の、その倍数が、ターニングポイントになっているのではないか?」
 と、感じるのだった。
 だから、実際に終わってみると、どとんどの感覚がマヒしていたおかげか、本当は苦痛でしかたがなかった気持ちが、思い出してみると、それほどでもないと思えるのだ。
「悪夢を見る」
 という感覚とは、正反対なのかも知れない。
 夢を見る時、
「怖い夢は絶対に忘れないのに、楽しい夢は、なぜ、簡単に忘れてしまうのだろう?」
 という感覚である。
 最近少し、今までと違う感覚を感じるようになったのだが。
「忘れてしまうのではなく、本当は憶えているのではないか?」
 ということで、忘れていると思うのは、
「他の夢と混乱してしまって、中和されてしまうことで、見えるものも見えなくなってしまっているのではないか?」
 と、感じるのだった。
 楽しい夢というのは、意識として、遠い夢のように位置付けられ、夢の中では、
「遠くであり、小さな存在」
 としてしか、残っていないのだろう。
 つまりは、記憶の中で、
「かなり昔のもの」
 という錯覚を植え付けられている。
 そのおかげで、錯覚となる子供の頃の夢や意識は、意外と夢の中では遠い記憶としても、深く残っているもので、
「遠く小さい」
 という、楽しい夢とは違う感覚になっているのではないだろうか?
 だから、楽しい夢も、一瞬で終わってしまうということになるのだと思っている。
 夕方になるまでに、かなりの時間を有したと感じているから、
「さぞや、仕事が終わった時は、相当に疲れきってしまっているのではないだろうか?」
 と、考えているのではないだろうか>
 しかし、実際にはそんなに疲れていない。まるで、帳尻が合わされたかのように思うのだった。
 それは、
「一日が終わってから思い返すと、そんなに時間が長かった」
 とは感じないからだ。
 仕事が終わって思い返してみると、確かに、昼はかなり遠かったように感じる。しかし、疲れという意味においては、そんなに疲れていないのだ。終わってみれば、自分が考えている時間の通りだというのは、
「時間に限ったことではなく、長さを感じさせるもの、すべてではないか?」
 と思ったのだ。
 一日が長く感じる日々が続いていても、一週間が経ってしまうと、あっという間だったような気がしたり、あるいは、その逆だったり、ということがあったりするではないか?
 それが、自分の中で、
「帳尻を合わせている」
 と感じるようになったのは、高校を卒業し、大学に入ってからのことだった。
 高校時代は、とにかく、一分一秒を惜しんで勉強したものだ。
「俺が気を抜いている間に、ライバルはその瞬間、一問分の正解を得たのではないか?」
 と考えると、気を抜くわけにはいかなかった。
 それだけ、学校でも、予備校でも、生徒を煽る。そうでもしないと、自分でも、エンジンが関わらないのだと、畠山は自覚していた。
 だから、毎日毎日、いや、一分一秒が緊張の連続で、一日が終わると、疲れ切ってしまっていた。
 だが、若さからなのか、一晩寝れば、その疲れも吹っ飛んでいたりするものだった。
 そのおかげなのか、一日一日のメリハリがしっかりとついているので、翌朝には疲れが取れている。
 だが、
「また勝負の一日が始まる」
 と思うと、精神的に憂鬱になるのも仕方のないことであった。
 大学に入ると、今度は、そこまでの緊張感はない。緊張感がないというよりも、腑抜けのようになっている分、一日があっという間に過ぎていく。疲れを感じることもなく、
「高校時代とはまったく違うんだ」
 という感覚になるのだった。
 高校時代のように、時間を刻んでいるという、いわゆる、
「時刻」
 という感覚はない。
 それだけに、あっという間に一日が終わっている。
 ということは、
「時刻という単位を高校時代は意識していなかったから、一日がなかなか経たなかったということではないだろうか?」
 と考えた。
 大学に入ると、高校までと違って、時刻を感じるようになった。まるで、耳元で、秒針の音が聞こえてくるかのようである。
 それは、高校時代のように、一秒を意識していないことへの怖さがあるのではないだろうか?
 毎日があっという間に過ぎることで、大学生活が四年間しかなく、そのうちの三年生以降は、就活や卒業のための研究や準備で、遊んでなどいられないという意識があることで、「一日を無駄に過ごしてしまうのは、受験勉強で気を抜くのと、一体どこが違うというのだろうか?」
 と考えてしまうのだった。
 そう思うと、今度は、一週間前がだいぶ前のことだったように思うのだ。
 何かをしたわけでもないのに、一週間が長かったという感覚が残っているのは、まるで、何かのぬか喜びをしているようで、決して嬉しいことではない。
 却って、焦りを呼んでいるのと同じであった。
 学生時代、彼女を作って、楽しい大学生活を送るのにも、時間が掛かるのだ。無為に過ごした時間が長ければ長いほど、時間がどんどん過ぎてしまっていることに恐怖を覚えるようになる、
「そう、毎日が夢のように過ぎるのが、いいことの積み重ねであれば、何もない無為な毎日は、夢とは言わず、幻だといってもいいのではないだろうか?」
 そんな高校時代と大学時代の間で感じた極端な時間への感覚の差というものは、その後の自分に時間の感覚というものを、いかに感じればいいのかということを示してくれたような気がする。
 ただし、
「これが、もし逆だったら?」
 と考えたとするならば、少し感覚が違っていたのではないかと感じるのだった。
 特に社会人になってから、いや、学校を卒業してからといってもいいだろうが、それまでとまったく違った毎日を過ごすようになって、余計に、
作品名:必要悪と覚醒 作家名:森本晃次