必要悪と覚醒
「ああ、まあ」
と曖昧に答えた。
「それは分かります。私もあなたの立場ならそうでしょうね。でも、これは通らなければいけない道でもあるし、そんなにゆっくりもしていられない状況でもあるんですよ」
と言った。
「というと?」
「デジタル庁の連中は、我々の存在は結構早いうちから分かっていたようです。それこそ、デジタル庁というところなんでしょうが、でも結局は、そのニュースソースはアナログでしかないわけです。そう思うと、我々もデジタルを駆使しながら、元はアナログだということを、デジタル庁に訴えないといけない。それが、組織の表の理由です」
というので、
「表があるのだから、裏があると?」
「ええ、そうです、それを簡単にスルーもできないし、してはいけないはずなのですよ。スルーするくらいなら、そもそも組織なんて作らないし、作ったところで最後は、大きな相手に取り込まれるのが関の山ですからね。デジタル庁はできたばっかりで、政府の中でもうまく行っていないと思われる。これを単独で行ったのは、前政権のソーリであり、要するに、自分がちゃんとソーリの職をまっとうしているんだということを、世間に知らしめるためだけに分けたわけですよ。自分がソーリの在任中の成果にしたいということになるわけです」
という。
「そのあたりが少し難しいところという感じがしてきますね」
というと、
「そうなんですよ、だから、あなたにも協力願いたいと思っているんです」
といって、握手を求めてくる。
さすがに今日出会って、話を持ち掛けられてもと思い、とりあえず、保留にしておいた。連絡先も聞かれたが、さすがにそれも怖いといってもいいだろう。
それをいうと、
「じゃあ、あなたが明日以降、我々の存在をまだ気にしていて、その気になったのであれば、この店に来てみてください」
という。
「分かりました。そうすることにします」
といって、その日は店を出た。
といっても、店を出てから考えることは、
「何か夢でも見ているようだな」
と考えさせられた。
相手の気持ちも分からなくもない。だからと言って簡単に納得できるものではないし、相手の男を全面的に信用できないのは、自分が知っているのはその男だけでバックが見えなあったのだ。
「どうして信用でいないんですか?」
と聞かれると、
「組織というが、どうにも気になってしまって。我々の世代は、組織というのに、敏感な世代でもあるんですよね。特に組織と聞くと、いいイメージが湧かない。〇ボーであったり、麻薬関係の密輸組織。そして、新興宗教の類。そんな連中は過激派のような状態になると、誰が抑止してくれるというんでしょうね? それを思うと、どうしても、後ろに下がれるだけのスペースや余裕がないとどうすることもできなくなってしまうんですよね」
と言いたくなってしまう。
そんなことを考えていると、
「いやいや、一度頭をリセットさせて、それでも気になったりする気持ちが、さっきよりも減っていなければ、自分にも興味のあることだということを否定するのは難しいことであろう」
と考えるのだった。
その日一日、仕事をしながらでも、ついつい昨日の話を思い出す。思い出す分を自分で否定することは、もはや無理だったのだ。
ついつい仕事が終わって、足は、昨日のバーに向かうのだった。
一瞬、
「あのお店、本当にあるのだろうか?」
とまで考えた。
「よくあるじゃないか? 夢幻という感覚を持っていれば、前の日に行った場所に二度といけなくなってしまった。というのは、その店が昨日だけ存在する店であり、自分が昨日に戻らない限り、行くことができなくなってしまったのだ」
ということであった。
普通に店は存在するのに、辿り着くことができない。
この発想は、
「パラレルワールド」
の発想であり、
「マルチバース理論」
といっていいだろう。
つまりは、今日になると、昨日から続いてきている世界がいくつにも増えているということである。
逆にいえば、
「次の瞬間には、無限の可能性があり、その可能性の数だけ、世界が広がっているというものであり、次の瞬間、無限の可能性があるとすれば、今のこの世界も、一瞬前の時間から見れば、無限の中の一つにしか過ぎない」
というものだといってもいいかも知れない。
無限の可能性というものを、いかに追い求めるかを考えると、どうしても、パラレルワールドであったり、マルチバースの考え方が、一種の螺旋階段のように絡み合って考えられるのだ。
それが、
「負のスパイラル」
と呼ばれるもので、
「正のスパイラル:
とは言わない。
それだけ、負の方が圧倒的に多く見えていて、逆に正の方は、当たり前すぎて、ただの通過点ということで、ハッキリと見えることはないのであった。
そんなことを考えていると、店は普通にあり、店が見えた瞬間、今まで、パラレルワールドの発想などと考えていたこと自体がまるで夢であったかのように、
「目が覚めると、夢は忘れていくものである」
という言葉を思い出すに至った。
店に入ると、そこには昨日のマスターがいた。しかし、客は誰もおらず、
「こんにちは」
といって、カウンターの一番奥に座ると、マスターは一瞬怪訝な顔をしたが、今度はあきらめの境地のような顔になり、次第に憔悴していくのが分かったのだった。
注文をして、
「この間の方は、まだ来られていないんですかね?」
と聞くと、
「ああ、彼なら、まだだね。もうそろそろだと思うんだけどね。名前、聴いてないのかい?」
と言われて、
「ええ、うっかり聞きそびれました」
と言ったが、実はわざと聞いていなかった。
もし相手が名乗ると、こっちも名乗らなければいけない雰囲気になるのが嫌だったからだ。正直その時までは、まったく信用していなかったといってもいい。だから、マスターも、敢えて、その人の名前を言わないし、こちらの名前も聞いてこない。こちらがいえば、それに従うという感じであろう。
もっとも、本当は言いたいのだが、言いそびれてしまうことで、タイミングを逸することもある。畠山の場合は、それが多かった。
だから、主役。つまり、マスターと自分を結ぶ本人がいないことで、違和感のある雰囲気を感じさせられていたのだ。
そのため、時間が経つのが長く感じられた。しかし、しばらくすると、今度は目まぐるしい喧噪たる雰囲気に巻き込まれるなど、思ってもみないことだった。
なかなか、男が現れないと思い、ゆっくりしていると、いつものように、時間がゆっくりすぎていき、その時、
「あれ? このまま眠ってしまうのではないか?」
と感じた。
それは、今までにない感覚で、
「そうか、時間が長かったと思ったのは、ひょっとすると、眠ってしまっていた時間が一緒になっているので、余計に、時間が長く感じたのかも知れないな」
と思ったのだった。