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必要悪と覚醒

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 正体性理論の中で、速度と時間の関係性について語っているところがあった。
 つまり、
「光速を超えると、そこでの時間が進むのが遅くなる」
 ということであった。
 つまり、宇宙に飛び出して帰ってくると、宇宙船の中は、1カ月しか経っていなくても、地球上では、数百年が経過しているということだった。
 そのアメリカ映画も、それにならった形だったが、子供の頃、なつかし映画ということで見たのだが、これが、今から40年以上も前の映画だと思うと、
「すごいな」
 と感じた。
 ただ、SFチックな映画や、スペースファンタジーものの元祖はもっと古くからあったようで、その映画の頃が、第一期の絶頂期だったのかも知れない。
 ただ、アインシュタインの、
「相対性理論」
 という考え方を用いると、日本の昔話を理論的に説明できてしまうのだ。
 しかも、おとぎ話や昔話の類は、室町時代に作られたものが多い。
 室町時代というと、1300年代半ばから、1500年代後半くらいまでということになるので、500〜700年も前のこととなる。
 しかも、これらの伝説は、各地方に似たようなものが残っている。
 ということは、おとぎ話として編纂されたものの、この物語は、もっと古い時代から。口伝されてきたものではないかと思える。
 そうなると、さらに昔ということになるではないか。
 この話というのは、そう、誰でもピンとくると思うのだが、
「ウラシマ太郎」
 の話である。
 浦島太郎という青年が、丘に上がってきた亀が苛められているところに遭遇し、子供たちから亀を助け、その亀が、
「お礼に」
 ということで、竜宮城に行き、そこで乙姫と幸せな日々を数日過ごしたのだが、家が恋しくなったということで浦島太郎は、乙姫に別れを告げて、亀の背中に乗って、また丘に戻ってくる。その時に、
「決して開けてはいけない」
 と言われる、玉手箱を土産にもらったのだが、丘に戻ってみると、知っている人が誰もいなくなっていた。
 そこでその世界が未来だということに気づき、太郎は失意の中で、玉手箱を開けると、おじいさんになってしまった。
 というのが、大まかな話であった。
 ただ、この話を聞いて、皆、おかしな気持ちにならないだろうか? モラル的におかしいと思わないか? ということである。
「浦島太郎は、亀を助けるといういいことをしたのに、どうして最後は、おじいさんになってしまうという末路を演じなければいけないのか、理不尽ではないか?」
 ということである。
 確かに、学校で習ったような話であれば、ここで終わりなのだが、実際には続きがあるというのだ。
 それは、ハッピーエンドの話なのだが、そうなると、このお話は、実は、
「ラブストーリーだった」
 ということになるのだ。
 今までのお話は、おじいさんになってしまったところで終わっている。普通であれば、その終わり方は中途半端な気もするだろう、
 まあ、考えてみれば、おとぎ話の類は、結構よく分からないような終わり方をしているもので、
「あれ? いいのか?」
 と感じることも少なくはないだろう。
 それにしても、浦島太郎のお話は、そんな中でも特別な気がする。何と言っても、おとぎ話というと、どうしても、
「教訓」
 ということがポイントだからである。
 亀を助けたのに、最期は老人になってしまうというのは、どうにも解せない。浦島太郎が何か悪いことをしたとでもいうのだろうか?
 そもそも、おとぎ話というのは、教育上、明治政府が、教科書に載せるところで、審議をしたというが、浦島太郎の話としては、
「亀を助けた」
 ということよりも、
「開けてはいけない」
 と言われていたものを、開けてしまったということの方に重きが置かれ、そのために、いいことをしたのが打ち消されてしまったのだ。
 いいことをしたのは、竜宮城に連れて行ってもらったことで、チャラになり、その後の約束を破ったということを重要視し、そのため、おじいさんにさせられる話に変えられたのだ。
 実際のお話は、おじいさんになるところまでは同じで、そこから先があるのだった。
 まず、おじいさんになった浦島太郎は、その後、鶴になるのだ。
 そして、太郎を慕っていた乙姫が亀になって、地上に上がり、太郎と結婚し、幸せに暮らしたというのが、本当の話だと言われている。
 つまり、
「鶴亀伝説」
 はここから来ているのだ。
「鶴は千年、亀は万年」
 という長寿のことわざ、それこそが、浦島太郎の話の真髄なのである。
 そして、浦島太郎というのは、もう一つ大きな問題を秘めている。
 そう、
「どうして、竜宮城では数日だったものが、地上に戻ると、何百年も過ぎていたというのだろうか?」
 と考えれば、今の時代であれば、まずほとんどの人が頭に思い浮かべる発想が、
「アインシュタインの相対性理論」
 であろう。
 まず考えるのは、
「浦島太郎は宇宙に行っていたということか?」
 ということである。
 光速で移動し、本人は数日だと思っていたのが、数百年経っていた。そう考えるのが、順当である。
 もう一つの考え方として、
「楽しい時というのは、時間が経つのがあっという間なので、気分的なものだった」
 というのがあるが、これはいささか無理がある。
 人間の寿命は、普通、数十年だ。特にこの時代は、
「人間五十年」
 と言われていた時代ではないか。
 しかも、まったく年を取っていないわけである。ただ、これも発想としては、
「楽しいことばかりでストレスがなければ、人間は本当は年を取らないのではないか?」
 といえるのではないかと考えていた。
 だから、本当は年を取ったのは、玉手箱を開けたからではなく、急激に時間が経ってしまったことで、
「取るべくして年を取ってしまったので、一気におじいさんになった」
 ということかも知れない。
 本当は、玉手箱をあけると、鶴になって、鶴であれば、1000年生きるのだから、まだまだ生きられるということだ。
 しかし、ここでもう一つ不思議なことがあった。
「なぜ、乙姫は、亀になったのだろうか?」
 ということである。
 亀は万年である。
 ということは、浦島太郎よりも、9000年も長生きするわけだ。
「好きな人が死んでしまってから、9000年も一人で生きることになるのに、耐えられるのだろうか?」
 と考えたが、これはあくまでの人間としての考え方で、動物であれば、
「好きな人が死んでしまったら、次に好きになる人を探せばいいんだ」
 ということなのかも知れない。
 確かに、人間同士なら、ほとんど、寿命は変わらないが、亀のように、本当の長寿が他の動物と恋に落ちると、自分だけが生き残ることになる。
 その寂しさを埋めるのが男しかいないのだとすれば、死んでしまった相手を思い出として忘れることさえしなければ、次に行っても、それは悪いことではないというものだ。
作品名:必要悪と覚醒 作家名:森本晃次