必要悪と覚醒
もし、またもとに戻すとすると、分母が変わるわけではないので、何度引いても、それは、観世確率になる。つまり、最初に引いた数は、いくらやっても、同じ確率なので、棒が50本あった場合、一発で引き当てることもできるが、下手をすると、ずっと当たらない可能性もある、1000回やっても当たらないということも、可能性としてはあるのだ。
これは、ゲームが好きな人であれば、
「黒ひげ危機一髪」
などのゲームで言えば、分かりやすいのではないだろうか?
剣を差す人だけが見ていて、他の人は見ていなかったとして、一度刺した場所の剣を引き抜いて、見ていなかった人がどこを差すか。これと同じことである。下手をすれば、10人連続で、同じところを差すことになるかも知れない。そう思えば、ずっと黒ひげが飛び出さないという可能性だってあるのだ。
普通の遊び方であれば、必ず、差す穴の数までには絶対に黒ひげは飛び出してくる。これが完全確率とそうでないものの違いなのだ。
もう一つの考え方として、双六などをやっていて、
「ゴールに入る時のルールをどうするか?」
で、決まってくることもある。
要するに、最期、オーバーしても、ゴールと認めるか? それとも、ちょうどの数を引かないと、オーバーした分は、後戻りするというようなやり方であれば、前者は、先に進んだ方が絶対的に有利だが、後者では、いくら先に進んでいても、ラストでちょうどを引かないと勝てないということになる。後者の方が完全に、運任せということになるのではないだろうか?
後者の方が、ギャンブル性がある、つまりは、
「完全確率は、ギャンブル性に満ちている」
といってもいいかも知れない。
そう考えると、やはり、
「パチスロというのは、娯楽性のあるゲームではなく、ギャンブルなのだ」
といえるのではないだろうか?
そういう意味で、攻略本というものの存在は必要なのだ。
それも、完全確率という、可能性を考えれば、
「一日打っていても、大当たりがない」
ということもあるだろう。
しかし、スロットのほとんどの台は、それはない。なぜなら、
「天井」
というものが存在するからだ。
これは、天井のゲーム数が決まっていて、例えば、1000ゲームが天井だとすれば、もし、前の大当たりから、あるいは、朝一からのうちはじめから、1000ゲームあたりがなかったとすれば、
「必ず大当たりする」
という、いわゆる救済措置である。
パチンコにはそれはない。
今の機種には、スロットでいうところの、
「天井」
に近いようなものはあるが、それは、チャンスゾーンというだけで、必ず大当たりをするというわけではないのだ。
そういう意味で、当たらない時はまったく当たらないのだが、その日の機械によっては、大連ちゃんすることがある。
つまり、
「大当たりが繋がるフラグを引いてしまった」
というわけである。
そうなると、もう辞められなくなってしまう。
大当たりが終わって、通常に戻って、30ゲームも回していないのに、大チャンスになり、またあたりがくる。そんなことが、30、40回と連荘するのだ。
パチンコをする人は、この時の夢が忘れられないのだ。
どんなに当たらなくて、一日中、回しても一度も大当たりしなかったという記憶よりも、大連ちゃんした記憶の方が頭の中に大きく残っている。
つまり、
「それだけ、大当たりが連荘する方が、当たらない時よりもはるかに少ないということであろう」
麻雀で、マンガンくらいはいくらでもあたりが、役満ともなると、そうもいかない。
「何かよくないことが起こる前触れか?」
などということで、役満を当たった時は、厄払いと称して、他の人に食事を振る舞うくらいのことをしないと怖いというくらいであった。
これは、確率ということで片付けるのは難しいだろう。そもそも、麻雀は確率のゲームではないからである、
パチスロのように、確率を求めるもので、その数字と、演出が分かっていないといけないものだ。
そうしないと、辞め時が分からなくなり、最後まで追いかけてしまい、最悪の形になりかねないからだ。
それでも、たまには、大連ちゃんする。その時の記憶だけが残っているということになると、どんなに、負けても、懲りないということになってしまう。
そうなると、
「ギャンブル依存症」
というのは、パチスロでは深刻な問題になるのだろう。
そういう意味で、攻略本は、
「命綱」
でもある。
ただ、攻略本を信じて、
「これで勝てる」
などと思ってしまうと、まず間違いなく、痛い目に遭うことだろう。
この確率は、
「激熱」
の文字が液晶に出てきた時くらいの確率ではないか。
まず、80%は超えているといってもいい。
しかし、この80%をどう感じるかである。
「外れたら、ショックで立ち直れないレベル」
というべきか、
それこそ、その時がやめ時といってもいいだろう。
しかし、80%というのは、分数で考えると、5分の4である。
つまりは、5回に1回は外れるのだ。
ということは、100分の1の確率の台であれば、単純に考えて、
「500回回せば、外れてもおかしくはない」
ということになり、
「それが、今回なのかも知れない」
といってもいいだろう。
500回転くらいであれば、一日回していれば、数回は来ることになる。そうなると、外れることは、一日に何度かはあるわけだ。
「これを本当に激熱といってもいいのだろうか?」
と思うのだった。
確率の問題は、正直、誰にも分からない。制作したメーカーも、最初に、
「大体100分の1を大当たり確率にする」
といって製作するのだが、その通りに作れば必ず誤差が出る、
そのために、何度も試して、分母を大きくしたところで、分子のあたりの確率を、いかに、
「通分して、100分の1にするか?」
ということが大切なのだ。
「それだけに、完全確率というものは、制作において、どれほど難しいということなのか?」
ということになるのだ。
さらに、そこに演出のパターンが絡んでくる。ゲームをするユーザーが頭を悩ますのだから、機種を生み出す製作者がそれ以上の頭脳と、苦労によって作り出されるのが、パチスロというものなのか?
ということを考えると、
「実際に作り出した人も、解析する人も、それぞれい大変なんだな」
と思わずにはいられない。
そんなことを考えながら、畠山は、テキストを見ていたのだった。
畠山がパチスロに嵌ったのが、演出と確率の問題だということを自分で分かっていた。
しかし、分かってはいたが、実際に皆がどこまで考えているのかが分からないので、自分も、
「パチンコというギャンブルに嵌った」
と思うようになったのだ。
ただ、畠山がパチスロが好きだとは言っても、いろいろな台を打つわけではない。
パチンコにしても、スロットにしても、自分の好きな台があるわけで、それ以外の台で遊ぶことはなかった。
パチンコもスロットというのも、免許期間のようなものがあり、そのほとんどが、3年であるという。3年経てば、一般的には、店に置いていてはいけないことになる。