時間を食う空間
「それは、夢が数秒でしか見ていないということを、理解できないまま目を覚ますと、まだ夢の中にいるような気がして、意識が元に戻ってこない可能性があることから、辻褄を合わせるというような意味で、目が覚めるにしたがって、忘れて行かせているのではないかと思うんだ」
と、老人は言った。
「なるほど、分からなくもない」
と思ったが、口でいうわけではなく。一度、大きく頷いた。
それを見て、老人も分かってくれたと悟ったのか、満面の笑みを浮かべ、
「ここまで分かってくれていれば十分だ。私が言いたいことを、あなたはきっと分かってくれていると、私は確信しているよ」
と老人は言った。
マスターもそれを見て、楽しそうに微笑んだ。それが、老人の話術にかかった自分に対してのものなのか、老人の、相変わらずのテクニックに、いまさらながら感心させられたという感覚なのかと感じたのだ。
時間の感覚
バー「クロノス」に初めてきた客、名前を佐久間頼政というのだが、自分の名前が子供の頃は嫌いだった。
父親が、歴史好きということで、しかも戦国時代が好きだったという。
そんな中で、
「有名武将には興味がない」
と元々言っていたようで、
「実際の武勇はすごいのだが、その武勇のわりに、名前が売れていない」
というような武将が好きだったという。
中学、高校時代には、いろいろな武将を調べたり、歴史小説の中でも、歴史文庫の中に、人物を題材にした文庫本がある。有名な武将から、名前は聞いたことがあるけどという程度の武将であったり、実際に、何をしたのか、ピンとこない武将までいる。それが大名だったりすると、気になって、手に取って本を読んでいたようだ。
そんな父親が、数人の気になる戦国武将がいる中で、一人気になったというのが、
「佐久間盛政」
であったのだ。
父親が佐久間盛政を気にしたのには、一つ理由があるという。
「あれは、お父さんが、学生時代に好きになった女の子というのは、結構北陸地方に縁がある人が多くてな」
という。
「だから、お父さんも、よく北陸地方に旅行に行ったりしたんだが、そこで、佐久間盛政のことを知って、興味を持ったんだよ」
と言われ、頼政も、調べてみた。
佐久間盛政という武将は、織田信長配下の武将で、おじさんの佐久間信盛は、織田家の筆頭家老であった。
そんな佐久間盛政は、加賀一向一揆などを平定したりして、北陸地方に、大きな地盤を築いていったのである。
大聖寺城や、今江で城主などを務め、あの加賀百万石で有名な前田家が入場することになる金沢城を築城し、初代藩主となったのが、この佐久間盛政だった。
彼は、同じ北陸の越前に地盤を持つ、柴田勝家に味方することで、秀吉との間で勃発した、柴田勝家との合戦である。
「賤ケ岳の合戦」
に、勝家側に立って、参戦することになった。
彼は、まず先鋒として中川清秀が守る、
「大岩山砦」
の占領に成功したのだが、それは、勝家との間で、
「占領したら、すぐに戻ってくるように」
という条件の元の出陣だったものを、勝ちにおごったために、
「ここを死守する」
といって、他の砦攻略に取り掛かり、時間を稼がれている間に、琵琶湖から、丹羽長秀の軍に合流されてしまった。さらに、秀吉が、いわゆる、
「美濃大返し」
という、秀吉得意の、
「大返し作戦」
で、佐久間軍は孤立した。
さらに、柴田軍の、前田利家が兵を引いたことで、柴田軍は大混乱に陥り、そのまま、越前北ノ庄に逃げ帰ることになった。勝家はそこで、
「もはやこれまで」
ということで、妻のお市の方を逃がそうとしたが、お市のたっての願いで、二人して、城で自害ということになったのだ。
一方、佐久間盛政は、再起を図ろうとしていたところで、捕まってしまい、佐久間盛政の武勇を知り抜いている、秀吉から、
「わしの家来にならんか?」
と言われたものを、蹴っている。
しかも、
「武士の情けで、せめて、切腹ということで」
と秀吉が言っても、
「いえ、敗軍の将として捕獲されたのだから、ここは潔く処刑されたい」
といって、秀頼を唸らせたという。
何しろその武勇から、
「鬼玄蕃」
と評された猛者だっただけのことはある。
しかも、捕まった時、他の武将から、
「鬼玄蕃とまで言われたあなたが、自害せずに、捕まるとは」
といって、不思議がっているところに、
「かの頼朝公は、石橋山の合戦で敗れ、山の中を彷徨っていて、奇跡的に助かったということだってあるではないか」
といって、まわりの武将を唸らせたという。
自分の技量も分かっていて、引き際も分かっている。そして、一縷の望みがあるのであれが、息の残って再起を期すという覚悟を持っている人物だということで、佐久間盛政という人物は、
「鬼玄蕃の名に恥じぬ男だ」
と言われているのだった。
その話を見た時、父親が、自分に盛政にあやかって、頼政とつけた理由が分かった気がした。
「幸いなことに、苗字も同じ佐久間だからな」
ということであった。
普段はあまり、父親に対して従うよりも、逆らう方が多い頼政だったが、この時ばかりは、父親に敬意を表する気になったのだ。
頼政も、どちらかというと、父親に逆らう方だったが、納得のいくことであれば、素直に受け入れるという、度量の深さも持っていたのだ。
父親もそのあたりは分かっているようで、
「いい名前をつけてやったな」
と思っていたことだろう。
おかげで、頼政も、父親にちなんで、
「有名武将よりも、あまり名前の知られていない、玄人受けする武将をいろいろ調べてみたい」
と思うようになっていた。
そう、どちらかというと、ナンバーツーのような武将を気にするようになっていたのだ。
だが、そのブームは、今から10年くらい前にあった。しかし、実際にそのことを最初に気づいていたのは、この自分で、学生の頃というから、今から、二十年以上も前のことだった。
今でこそ、
「軍師」
などと言われる人がもてはやされていて、
「上杉家に直江兼続」
「羽柴家に、黒田官兵衛、竹中半兵衛の両兵衛」
「伊達政宗に片倉景綱」
と、有名どころは、それから十年もすれば、有名になるのだが、頼政は、さらにもっとマイナーな武将が気になっていた。
「石田三成に、島左近」
「浮田秀家に、明石全登」
さらには、
「黒田長政に飯田角兵衛」
などである。
そういう意味では、佐久間盛政も、ナンバーツーというには、少しきついかも知れないが、勝家の次という意味では、秀吉が見込んだだけのことのある人物なのだろう。
盛政に対しては、
「何が一番の魅力か?」
というと、
「猪突猛進なところはあるが、男として、武将としての引き際と、覚悟をこれほど持った人物もいないということであろう」
といえるのではないだろうか?
それを考えていると、
「仕事での悩みも、小さなことではないのか?」
と思えてくる。
そういう意味で、佐久間頼政という名前、決して嫌いではないのだった。
バー「クロノス」で、自分の名前をいうと、老人がすぐに悟ったみたいで、