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夥しい数のコウモリ

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 如来というのは、悟りを開いた仏のことで、菩薩は、ただいま修行中の僧である。明王というのは、
「仏の教えに背くものを懲らしめる」
 という役目があり、天部というのは、
「仏や、その教えを守るための、兵隊のようなものだ」
 と考えられている。
 だから、釈迦、薬師、阿弥陀などの如来様には、単独というよりも、まわりに兵を従えていることが多い。それが、天部というわけである。
 菩薩というと、観世音などが有名で、明王になると、不動明王などが有名だ。
 天部になると、恵比寿や毘沙門、大黒のような、いわゆる、
「七福神」
 もそこに入るという。
 天部の世界では、六道と呼ばれる世界があり、そこは、
「人が死んだら、生まれ変わる世界」
 と言われている、
 先ほどの、天国と地獄以外にも、もう一度、人間に生まれ変わったり、修羅同、畜生道、餓鬼道、地獄道と別れている。もちろん、天国というのは、天道というわけだ。
 つまり、人間道でなければ、人としては生まれ変われない。
「人間道というのは、苦しみや辛さもあるが、楽しみや希望もあるということで、いくらでもどうにでもなることができる」
 ともいえるだろう、
 天道のように、神様となる場合はいいのだが、それ以外、人間道以外に、楽しみはないのではないだろうか?
 そんなことを考えると、
「せめて、次はまた、人間に生まれ変わりたい」
 と感じるか、歴史上、ほとんどが、殺し合いの時代で、自分の意思ではどうすることもできなかった歴史があるだけに、普通なら、
「天界に行きたい」
 と思うことだろう。
 それを叶えてくれるのが、宗教だということだ。
 ただ、いくら宗教でも、この世界にいる人間を救うことはできない。
 それぞれの世界は不変なものであり、今その人が人間界にいられるのは、前世で、人間界に選ばれるだけのことをしたからであろう。ただ、その元が何であったのかは分からない。よい行動をして、下の道から、人間に生まれ変わることができたのか、それとも、天から落ちてきたのかである?
 ただ、宗教によって、その教えの中で、
「地獄に堕ちると、二度と人間に生まれ変わることはできない」
 というものもあることから、それを信じるのであれば、自分の前世は、
「神だったか、人間だったかのどちらかでしかない」
 といえるだろう。
 つまり、それぞれの世界は、確立されていて、人間あるいは神一人だけでは、どうなるものでもないということである。
 現世の歴史を一人のために変えることはできないので、その人が次に進む世界をこの世の行動で決めるしかないということになるのだろう。
 そう考えれば、理屈としては合うのだ。
 いくら、坊主や僧といえども、彼は人間なのだ。神のようなことができるわけもない。
「じゃあ、今死ねば、あの世で天国に行けるのではないか?」
 と考えるかも知れない。
 しかし、それは、ある意味、その人にとってだけの都合であり、一緒に生きてきたまわりのことを考えていないということでもあるので、そんな考えを宗教が許すわけがない。だから、
「自殺は自分を殺すということであり、許されないことだ」
 として、戒めているのではないだろうか?
 これも、そう考えれば理屈に合うというもので、宗教というものは、
「突き詰めれば突き詰めるほど、よくできているのかも知れない」
 と思える気がする。
 ただ、改めて考えれば。それも、この世のりくつが噛み合っているから、そういう考え方になるわけで、本当に神や宗教が絡んでいるのかというと、これも疑問だ。
 やはり、
「天界は人間界に近いところにあり、背中合わせなのではないか?」
 という、
「六道」
 の考え方に似ているのではないかと思えるのだった。
 正直、今の世の中で、宗教というと、普通の人たちにとっては。
「ロクなものではない」
 と考えることだろう。
 確かに、詐欺や犯罪などが後を絶たないというのも事実であり、特に怪しげな新興宗教は、明らかに詐欺であったり、クーデターを仕掛ける隠れ蓑であったりする団体が多かったことで、実際に、犯罪集団と紙一重であり、背中合わせだったりもする。
 では、そんな宗教団体を、
「必要悪だ」
 といえるだろうか?
 新興宗教などにおいて、
「必ず、神は救ってくださる」
 といって、本当に救われた試しがあるのだろうか?
 そもそも、救いというものが何なのかということを、救われる人は分かっているのだろうか?
 もっと言えば、
「救われるというが、では、それは一体いつのことなのか?」
 今すでに救われているというのか、それとも、これから救われるというのか、それには、
「何をもって救いというのか?」
 ということが分からなければ、証明はできない。
 もっといえば、いつ救われるかということが分かっていれば、
「今救われたということは、あの瞬間が救いだったのだ」
 と自覚できて、納得もできることだろう。
 本人が納得もできていないのに、
「あなたは救われました」
 と言われて信じるであろうか?
 救われたのであれば、どうなれば救われたことになるのかを理解し、どうすれば、救われるかということを、今度は後進に伝授していかなければいけないだろう。
 自分がそうやって導いていってもらったようにである。
 いつ救われたのか。自分が本当に救われたのかということも分からず。
「救われた」
 というのであれば、それはいい加減でしかなく、信用しろという方が無理だというものだ。
 そんな連中は、
「悪」
 なのだろうが、果たしてその上に、
「必要」
 という言葉はないだろう。
 つまり、他の宗教からすれば、邪魔者であり、いい迷惑でしかないということだ。
 それに、
「そんな連中がいるから。宗教が白い目で見られ、純粋に人を救おうとしている自分たちまで、ロクなものではないと言われるのは心外だ」
 と思っているに違いない。

                 やりすぎ

 長治は、何か一つの宗教を信じているというわけではないが、それなりに、宗教的なことを勉強はしていた。
 心の中で、
「宗教というのは、ロクなものではない」
 という思いがあるのも事実であるが、それ以上に、
「この世の方が、本当は地獄なのかも知れない」
 とも思っていたのだ。
 今の時代において、どうしても宗教というと、昭和から続く詐欺であったり、人を間違った道に誘導するための道具、さらには、自分たちの目的を達するための、奴隷のようなものとして、信者を扱っているところが多かっただけに、その信憑性は、地に落ちているといってもいいだろう。
 だが、一つ一つ勉強してみると、それなりに辻褄が合っているところ、
「目からうろこが落ちた」
 というような、自分で納得がいくところがちゃんとある宗教もあるのだ。
 逆に言われているわけではない自分なりの理屈を、自分なりの解釈として考えるようにもなってきた。
 ただ、それを他人に話そうとは思わない。もし話したとすると、
「お前は何か、変な宗教にかぶれたのかあ? 俺を変な道に誘い込んだりしないでくれ」
 とばかりに、煙たがられるに違いない。
作品名:夥しい数のコウモリ 作家名:森本晃次