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夥しい数のコウモリ

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 ただ、少しでも勉強し、納得が行った人間からすれば、
「何も理解しようともせず、頭ごなしに否定する人間が、一番罪深い」
 と、さすがに面と向かっては言わないが、そんな目で見てしまうのだ。
 完全に上から目線で、見下したような目をしていることだろう。
「徳を積んだ人であれば、そんな素振りを表に出さずに、相手を納得させることができるのだろうな? きっと、菩薩様のような神様に違いない」
 と感じるのだった。
 宗教とは少し違うが、外国の寓話なども、長治は少し気になってみていた。
 特に気になっていたのが、イソップ寓話の中にある、
「卑怯なコウモリ」
 という話であった。
 コウモリという動物に対して、子供の頃から、何か気になっていた長治だったが、どこに気になっているのかが、自分でもよく分からなかった。ただ、
「何か気持ち悪い」
 というイメージだけは大きくて、
「ジメジメした薄暗い洞窟に、集団で暮らしていて、目が見えない動物である」
 ということは、漠然と子供の頃から知っていた。
 目が見えない代わりに、超音波を使って、障害物を認識することで、
「危ないのかどうなのか?」
 ということを認識するという。
「視力がない代わりに、聴覚が発達していて、それは、他の動物には聞こえない周波数の音を認識できる」
 ということなのだろう。
 その感覚があるからか、長治は、
「音というものに対して、興味を持つ」
 というようになったのだが、コウモリの特徴として、超音波を発して、障害物に当たって戻ってくることで、障害物までの距離を測ることができる。それが、潜水艦のソナーであったり、レーダーに役立っているのだろう。
 音というものは、空気を始めとした、何かに伝わるということで、認識されるものである。
「耳を通して、脳が感じる聴覚というのは、動物にある独特の作用なのではないだろうか?」
 と考えられる。
「この音の反射によって、音として認識するものを、声なのか、物音なのか、それとも、超音波なのかということを、普通に認識しているが、これこそ、一種の超能力なのかも知れない」
 と思っている。
 人間は、音を聞き分けることができるが、果たして他の動物はどうなのだろう?
 少なくとも、人間のように、会話ができているのかどうか分からないだけに何とも言えないが、人間は、声で相手が何を言っているのかということが分かる。しかも、声と文字との両方を理解し、人と会話をすることができるのだ。
 動物が会話できるかどうかは別にして、少なくとも、文字を書くことができないので、文字というもので、仲間に伝達することはできない。
 一つ気になるのが、習性というのか、動物には、敵が迫ってきたりした時に、逃げる習性がある。何が敵なのか分かっていて、それは、親からの遺伝子によるものなのか、それとも、生きていくうえで、自分が身につける感性が、そのまま生きるための教養として身についていくものなのかも知れない。
 それが、危機的なことに陥った時だけのことなのか、それとも、人間が知らないだけで、人間以上の頭脳を持っていて、ずっと、人間を欺いているのかも知れない。
 人間だけが、会話もできて、文字も掛けて、しかも、思考能力があるというのは、この世に無数の動物がいて、奇跡的なことではないだろうか?
 だから、
「この世は人間が中心で、動植物は、人間の餌として生きるしかないのだ」
 という考えになるのだろう。
 その考えが、キリスト教の中で、神という存在を生み、人間をいさめるようにしないと、暴走するとでも考えたのだろうか?
 やたらと、聖書の中では、
「一度人間を滅ぼす」
 という、
「ノアの箱舟伝説」
 であったり、
 言葉を通じなくして、世界中に、人類をバラまくという発想の、
「バベルの塔」
 という話ができあがったりしている。
 この話は、
「本当に、結果から、物語を考えたのだとすれば、すごいことだ」
 といえるのではないだろうか?
 確かに、バベルの塔の話のように、
「人類は、世界各国に散らばっていて、いろいろな言語を喋っている」
 という結果から、その原因は、
「神の怒り」
 であり、その怒りの元は、
「天に唾を吐くと、自分に振ってくる」
 ということわざの元になった、
「神に近づくための塔の建設」
 という発想だった。
 だか、この発想は、
「神に近づく」
 という発想以外でもありえることではないか?
 有力説として、
「宇宙人が地球に滞在している時、宇宙船が壊れて、自分がここにいるのを、宇宙を回っている同胞に見つけてほしいというための建物だった」
 という説がある。
 SF小説としては、ありえない発想ではないが、そう考えると、大きな建物を作ろうとしたことには違いないだろう。古代の日本にだって、ピラミッドと同じ発想の古墳群がある。それは、権威を示すためのものだということであるが、聖書のバベルの塔の伝説と似たようなものではないか?
 別に、宇宙人説があってもいいはずなのに、なぜ、日本ではそのことが言われない。宇宙に、自分がここにいるということを示すのであれば、高い塔よりも、古墳のように、空から見れば、しっかりとした形に見える方が、よほど信憑性があるというものだ。
 それなのに、なぜか誰も言わない。
「ナスカの地上絵」
 に関しては、宇宙人説があるにも関わらずである。
 それだけ、日本は、独特の考えが古代からあったということなのか? それとも、
「地球以外に、生物がいる」
 という発想がなかったのか、さらには、
「宇宙という発想自体がなかったというのだろうか?」
 ということであった。
 しかし、日本の古墳も、ナスカの地上絵もそうだが、
「誰が何の目的で?」
 というのは分かっていないだろう。
 確かに、自分の権勢を表すためにということになるのだろうは、かといって、本当に、上から見ないと分からないような正確性が、あの時代にあったというのは、すごいことだと言えるだろう。
 だが、本当にそれだけのために、あれだけの人員を動員して作らせたのだろうか? 本当は他に目的があったのではないかと思うと、古代へのロマンが頭をもたげてきたりするのである。
 歴史に興味を持ち始めたというのは、そういう古代史の謎が最初だったのだが、次第に、実際の事件や人物、それが時系列で重なっていくのが、面白くて仕方がなかった。
「原因があって、結果がある。つまり、結果を見れば、原因も想像がつくだろう。そのためには、同じ時代の、まわりとの関係が大いなるヒントになる。歴史とは、そういう学問なのだろう」
 と思うと、本を読むのが楽しみになったのだった。
 本を読んでいると、確かに分からないことが多かったりする。何しろ、出てくる名前が、皆似ていたりして、誰が誰か分からなくなってくる。授業などでは、あたかも暗記物のように、覚えるところがたくさんあり、試験は完全に、年代であったり、人名や事件の名前だったりするではないか。
 歴史の勉強をするようになると、他の勉強にも興味を持つようになった。
「宗教に興味を持つのは危険だ」
 ということは分かっていたが、それも、変に洗脳されなければいいことであり、
作品名:夥しい数のコウモリ 作家名:森本晃次