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夥しい数のコウモリ

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 何しろ、子供は昼夜関係なく、2時間おきのミルクなのだ。夫も昼は仕事があるのに、たまったものではない。ミルクの間隔など知らない旦那は、その恨みを奥さんにぶつけるに違いない。
 さらに、子供が成長してくると、旦那の稼ぎだけではやっていけないということで、奥さんもパートくらいはしないといけなくなる。
 そうなると、保育園に預けることになるが、その保育園がいっぱいでどうしようもない。保育園を増やそうにも、保母さんの絶対数が足りないのだ。
 だから、どうしても、子育てが滞ってしまい、旦那とも、決定的に仲が悪くなると、もう、離婚しかなくなってくる。
 そんな状態になることが分かっていると、今度は、
「子供なんかいらない」
 と思うようになる。
 昔のように、子供に、家を継いでもらうなどというのは、すでに時代遅れであり、さらに、
「自分の老後を子供に見てもらう」
 という意味で、
「今の養育費を老後のための投資だ」
 というくらいに思っていても、現在の自分たちでさえ、親の面倒など見ることができないほど、自分のことで精いっぱいなのだ。
 そうなると。
「子供なんかいらない」
 と思うどころか、
「結婚しても意味がない」
 と思うようになる。
「そもそも、なぜ結婚しないといけない? 女がほしければ、風俗にいけばいいじゃないか?」
 と、女をセックスの対象、ストレス解消の相手だと思っていた男が多かったということなのだろうか?
 確かに、結婚していなければ、不倫ではない。何人と付き合っていようが、バレなければ、問題はない。
 もし、それでお金が溜まるのであれば、そのお金で、風俗に行ったり、今流行りの、
「パパ活」
 だっていいではないか?
「癒しと安らぎの時間を、お金で買っている」
 と思えば、女の子も喜ぶし、何が悪いというのか?
 どちらもウインウインではないかと思うのは、おかしなことなのだろうか?
 そうやって、考えると、人と群れることも、
「どこに意味があるのか?」
 と、思う。
「寂しくはないか?」
 という人もいるだろうが、一人でいて、人に迷惑を掛けない趣味さえ持っていれば、それでいいのではないか?
 昔は、
「人は一人では生きていけない。一人で育ってきたと思うんじゃない」
 と言われたものだが、だったら、自分が、今度は育てる側にならなければ、それでいいんじゃないか?
 という考えが、横行しているのかも知れない。
 ただ、それが本当に悪いことなのだろうか?
 子供が生まれて、捨てたり、殺したりするよりも、結婚して、離婚という無駄な時間を過ごすよりも、
「人生は限られた寿命の中にいるんだ」
 ということで、自分が何をしたいのかということさえ見つけて、迷惑を掛けずにやっていれば、それでいいのではないか?
 孤独というものだって、寂しいと思うから孤独なのであって、寂しさを忘れるくらいの感情を持っていれば、別にそれでいいのではないか。
 趣味がクリエイティブなものであれば、世の中の役に立つかも知れない。
 役に立たなくても、迷惑をかけず、密かに生活していれば、それの何が悪いというのだろう?
 よく、
「近所に、一人孤独な老人がいて、毎日、何をしているのか分からないが、あんな風にはなりたくない」
 と言っている人もいるが、それの何が悪いというのだろう。
 その人が、ただ、
「俺の目の前をウロウロされると目障りだ」
 といっているだけではないか。
 それを思うと、何が嫌なのか分からない。
「自分は、友達もたくさんいて、そんな孤独な老人とは違うんだ」
 と言わんばかりで、まさに、
「反面教師」
 としての存在を、自分の中での、まるで必要悪として認識しているのかも知れない。
 そういう
「仮想敵」
 を作っておくことで、自分が生きている証を求めているのだとすれば、一体どっちが、この世に存在していて意味があると言えるのだろうか?
 そもそも、そんな考え方をすること自体がナンセンスなのであって、究極、
「楽しければそれでいいのだ」
 自分のまわりに友達がたくさんいて、楽しければそれでいい。ただ、それだけでは満足できないのか、仮想敵を作るようになると、その人は自分がどれだけ満足しても、さらに満足度を求めようとするから、まるで、
「血を吐きながら続けるマラソン」
 をしているように思えるだろう。
 昔あった子供向けの特撮番組で、
「東西冷戦における核開発競争」
 を皮肉った言葉として、この、
「血を吐きながら続けるマラソン」
 という言葉があった。
 まさにその通りで、一つに満足をすれば、さらにまだ満足を求めるという、それこそ、いわゆる、
「欲」
 というものである。
 欲には限りがないと言われる。ただし、欲というのは、元来悪いものではないはずだ。
「欲があるから、頑張れる」
 という言葉だってあるくらいで、だからこそ、頑張ることにも限りがないのだ。
「性欲、物欲、征服欲」
 絶対になければいけないものでもないが、なければ、日常生活に支障をきたすこともある。
 さすがに、食欲などのように、一定期間以上が我慢の限界があるものもある。こちらは、絶対に不変のものであり、抑えが利くというものでもないだろう。
 満足という欲は、その中間に位置しているものなのかも知れない。普段は、隠れていて、普通に生活をしていると、満たされるものであるが、一つの欲が芽生えると、この満足感を味わいたいという思いがどれほどのものかということで、自分の人生にどれほどの影響で関わってくるか、大きな問題となるのかも知れない。
 ただ、この満足感というものを持っていないと、人間は、抜け殻も同然であり、生きているという感覚ではなくなってしまうだろう。
 たまに、
「理由もないのに、自殺をしてみたくなって、自殺をした」
 という人がいる。
 意外とそういう人は、死を目の前にして躊躇うことはなく、一思いに自分を殺めることができる。そういう感情が、一番臆病とは無縁の感情なのではないかと思うのだった。
「世の中って、そういうものなのだろうな?」
 と、いって、死んでいったのかも知れない。
 自殺というものを、どう考えるかであるが、宗教では、
「死後の世界には、この世でよい行いをすれば、天国に行けて、悪い行いをすれば、地獄に堕ちる」
 と、いうざっくりとした言い方をすれば、そういうことのようだ。
 だから、今、
「この世で、これから行くあの世で天国に行けるように、よい行いをしておくべきだ」
 ということなのだという教えである。
 そのために、神や仏に、祈りを捧げ、読経することで、天国にいざなってもらおうということなのか、とにかく、宗教においては、
「この世での救いを求めているわけではない」
 ということである。
 だから、仏教などでは、寺院を作り、仏像を治め、仏像を崇拝する。それが、すべてだとは言わないが、表に出ているところで普通ピンとくる宗教活動というと、そういうところである。
 そもそも、仏像には種類があり、
「如来、菩薩、明王、天部」
 と4階層になっていて、ピラミッド型になっているのであった。
作品名:夥しい数のコウモリ 作家名:森本晃次