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夥しい数のコウモリ

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 という意味での必要悪である。
 しかし、長治という人物は、前者ではないだろうか? 長治自身は一人しかいない。それなのに、
「本人の中に、必要な場合と、悪とが共存しているように見える」
 という、不可思議なものに見えるのだ。
 長治自身、自分がどんな人物なのか、分かっているのだろうか?
 いろいろ聞いてみると、
「あいつと話なんかしたことなかったな」
 と、近所に住んでいる人は、そのように話していた。
 だが、その人がいうには、
「そういえば、あの人に限らず、最近、人と話をする機会がめっきり減ってしまって、だから、他人のことも気にすることはなくなってきているので、あの人のことだけを、特別に意識することはなかったですね」
 といっていた。
「でも、人と話をすることがなくなると、寂しくなったりしないんですか?」
 と聞かれて、
「いいえ、却って一人の方が気が楽でいいですよ」
 と言っている。
 それも、その人だけではなく、この街の、それも、この街の
「樹海」
 と呼ばれているその周辺に住んでいる人のほとんどが、似たような話をしていた、
 だからと言って、皆、そのことをいちいち意識しているわけではなく、
「聞かれたから、話をしただけだ」
 と、終始、面倒臭そうに話す。
 実際に聞いている方も、正直、気分のいいものではない。なぜなら、言いたくないと思っている人間の気持ちをこじ開けて、強引に聞こうとしているのと同じだからである。

                 神仏道

 長治を、知っている人間だけではなく、今まで話をしたことなどないと言っている人まで、このあたりの人は、決して、まわりに干渉しようとはしない。その気持ちの根底には、
「自分がされると、嫌だと思っていることを、いちいちしたくない」
 という思いがあるからだった。
 確かに、集団があれば、その中に一人くらいは、
「人にかまわれたりすることが嫌だ」
 と思っている人も少なくない。
 本当であれば、
「心配だから」
 という人もいるが、それはあくまでも、
「その人の自己満足を満たしたいだけのことではないか?」
 と感じるだけで、やっていることは、
「余計なお世話」
 なのである。
 されている本人は、
「なんで、そいつの自己満足のために、俺が黙ってしたくもないことをしてやらないといけないんだ?」
 と感じることだった。
 本当は、
「余計なこと、すんじゃない」
 と言えればいいのだろうが、そういう余計なことをしてくる連中に対して、基本的に強く言えない立場の人間が、ターゲットになるのだ。
 きっと、無意識に、直感からなのか、自己満足ができる相手というものを、本能のようなもので感じることができるからではないか。それを超能力と呼ぶのであれば、長治も、十分に超能力者と言えるのかも知れない。
 ただ、それは、予知能力や、見たこともないところをズバリ言い当てるというようなそんなものではなく、人間を操るという、洗脳のようなものを持っているといってもいいのかも知れない。
 それを、長治は意識しているのか、彼が気になっている、大野治長にも、
「似たような性格というか、習性が、潜んでいたのかも知れない」
 と感じるのだった。
 どうやら、そのあたりに、何かの、
「魔力」
 のようなものがあるのではないかと思われた。
 長治は、子供の頃に、
「親のいうことは絶対」
 という形で育ってきた。
 そもそも、親は長治のことを、まるで奴隷のようにしか思っていなかったふしがある。
 長治もそのことはよく分かっていて、
「俺って、どうして、親から虐げられているんだろう?」
 と思ってはいたが、逆らうことはできなかった。
 時々飛んでくるげんこつも、
「なぜ自分が殴られないといけないものなのか?」
 ということもさっぱり分からない。
 理屈が分かっていれば、対処のしようもないのだが、しかも、そのげんこつがいつ飛んでくるのか、その態度の共通性も発見できなかった。
「俺の一体、どこがそんなに気に食わないというのか?」
 と考えていたが、まったく分からない。
 完全に、自分のストレス発散のためだけに、自分が使われているのだと思うと、これ以上の屈辱などあったものではない。
 親というものが、ありがたく、自分を産んでくれたのだから、敬わなければいけないということは分かっていたつもりだったが、そんなものは、虚栄でしかない。
 考えてみれば、
「誰が、お前たちの子供として、生まれてきたいと言ったんだ」
 と言いたいのだ。
「人間は、生まれながらに平等だ」
「人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」
 などという言葉を残した連中を呪ってやりたいくらいだった。
 そもそも、人間は、生まれながらにして不平等ではないか?
 誰から生まれてくるのかということを選べないではないか。気が付けば生まれてきていて、親が存在している。
 親だってそうだ。ひょっとしたら、子供なんかほしくないと思っているのに、できてしまった子供もたくさんいるだろう。
 できてしまった子供を、中絶手術を行うなど、日常茶飯事ではないか? さらに、昔流行ったと言われる、
「コインロッカーベビー」
 生まれた子供を育てる自信がなく、子供を見たとたん、怖くなって捨ててしまった。
 あるいは、殺して捨てた。
 などという悲惨な事件も流行ったりした。
 しかも、そういう事件は連鎖するのか、それだけ、生まれた子供を持て余している人が多かったということか、それとも、
「子供が生まれても、コインロッカーに捨てればいい」
 と思っている人もいたかも知れない。
 その代償が、今の、
「少子高齢化」
 なのかも知れない。
 確かに、子供を産んでしまって、始末に困るのであれば、最初から子供を産まなければいい。
 昔のコインロッカーベビーが流行った時、事件を嘆いて、
「育てられないのに、子供を作ったりなんかするからだ」
 と、親になる覚悟もなく、ただ快楽に身を任せ、さらには、避妊すらしなかった代償がこれだったのだ。
 それに比べれば、育てられない親が子供を作らないという考えは間違っていない。ただいいのだろうが、時代としては、本当にいいのだろうか?
 そもそも、時代が悪いのかも知れない。
 昔のように、
「子供ができれば、その子が家を存続していってくれる」
 ということで、手放しで喜んでいたはずなのに、今の時代はどうなのだろう?
「子供ができれば、ロクなことはない」
 と言われている。
 まず、夫婦間がギクシャクしてくる。
 新婚で、あまあまだった生活の中に、子供ができて、母親が子供べったりになってしまい、疲れ果てると、旦那の方は、夜の営みをしようにも、それどころではない奥さんから拒否をされたりするだろう。
 しかも、あたかも、面倒臭そうな拒否の仕方をする。
 奥さんからすれば、
「私がこんなに忙しくて、へとへとになっているのが分からないの?」
 と思うことだろう。
 そこからすれ違いで、夫は浮気に走るか、どちらかが、離婚を言い出すか、それとも、ここから仮面夫婦が始まるかというところである。
作品名:夥しい数のコウモリ 作家名:森本晃次