小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

夥しい数のコウモリ

INDEX|6ページ/23ページ|

次のページ前のページ
 

 と言われるようになったのだが、他にこれといった能力は見受けられない。とにかくこの男が薄気味悪い人だということだけは皆認識しているようで、あまりいい雰囲気は誰も持っていなかったのだ。
 この男の名前は、大野長治と言った。
 父親が歴史好きで、大野治長のファンだったことから、
「さすがにそのままつけるのは、おこがましい:
 ということで、名前を逆さまにつけたようだ。
 大野治長というと、一番注目されたのは、大阪の陣での大阪城を取り仕切っていたというところからであろうか、
 彼の母親の大蔵卿局は、淀殿である茶々の乳母であった関係から、幼少の時分より、淀殿とは、仲が良かったことは分かっている。
 最近の時代小説などを見たりしても、そのような話も結構散見され、昔から言われていた、
「秀頼の父親は、本当は、大野治長ではないか?」
 という話も、実しやかに囁かれるようになっていたのだ。
 というのは、まず秀頼が、秀吉のかなり高齢になってからできた子供だということ。
 そして、長男であった、鶴松が、幼少の頃になくなっているにも関わらず、秀頼はすくすくと育ち、あの時代にしては、かなりの高身長だったという。
 二条城における会見で、家康が秀頼を一目見て、
「天下を治めるほどの技量を十分に持ち合わせていると思わせるほど、高圧的だった」
 という話から、
「豊臣家を生かしておくわけにはいかない」
 と感じたほど、秀頼は、凛々しい大人になっていたということだ。
 がっしりとした大柄で、
「あの時代としても、小柄で華奢だった秀吉」
 から生まれるというのは、ちょっと考えにくいと言われていたほどだった。
 それを思えば、身体ががっしりとしていたと言われる、
「大野治長の息子が秀頼なのではないか?」
 と言われるのも無理もないことだっただろう。
 それだけの治長が、歴史の表舞台に出てきたのは、正直、この時くらいのものだっただろう。
 執務などのほとんどは、三成が行っていたし、大野治長は、歴史の表舞台には出てくることもなかった。
 ただ、一度、秀吉亡き後、
「家康暗殺計画」
 が明るみに出て、流罪となったが、許されて、今度は、関ヶ原で東軍につく。
 しかし、淀殿の側近になってからは、そこから、大阪の陣まで、突っ走ることになる。
 どちらかというと、治長という人物は、悪役的な評価が高かった。
 頭が悪いと言われてみたり、淀との密会のウワサなどもあったりしたが、大阪の陣の前に、
「真田信繁を九度山から下山させて、大阪方につかせる」
 という考えを示したり、兵を与えて指揮を取らせたことを考えると、愚かな人間ではなかったということだろう。
 それを愚か者の評価にしたのは、
 江戸時代に入り、徳川の時代に入ったことで、
「家康に逆らった人物」
 ということで、淀殿を中心とした大阪方の武将が、あまりよく言われないというのも、無理もないことなのかも知れない。
 家康の作戦に引っかかって、大阪を追われた、
「賤ケ岳七本槍の一人」
 である、片桐且元なども同じであろう。
 大蔵卿局に対してと別のことを言って、家康が信用できないということを言って、混乱させようとしたとして大阪を追われたのだ。
 しかも、その先には、家康に保護され、大阪城のどこがどうなっているかなどという情報が筒抜けになってしまった。
 何しろ、堀はすべて埋まっていて、
「難攻不落」
 だったものが、あっという間の裸城になってしまったということもあって、もう、その時点で勝敗は決していたのだ。
 大阪城落城までのカウントダウンの中で、
「大野治長は何を考えていたのだろう?」
 と、長治は子供の頃、考えていたようだった。
 普通なら、苛められそうな名前なので、子供心にこんな名前をつけた親を憎みそうなものだが、長治自身も、大野治長のことに興味を持っていたので、決して嫌いな名前ではなかった、
 むしろ、好きな名前だと思っていたので、まわりから、何と言われようとも、
「気にしなければいいだけだ」
 ということで、受け流していた。
 そんな彼は、ある日から、ある動物に興味を示すようになった。
 それが、普通の人の感覚では、到底理解できないものなので、そんな彼を皆気持ち悪がって、近づこうともしない。
 もう、名前の由来どころの話ではなくなっていたのだ。
 その動物というのが、コウモリだったのだ。
 彼があの屋敷に、コウモリがいることを知っていて、あの場所を研究していたのだとすれば、何も長治に超能力が備わっていたわけではなく、自分で見て知っていたことを話しただけなのだ。
 それが分かっても、長治に超能力のようなものが備わっていると言われているのは、それだけ長治の雰囲気が、気持ち悪いように見えるからだったのだ。
 長治は確かに超能力者でも何でもない。どちらかというと、ただの変わり者だった。
 しかし、まわりの人間は、そんな掴みどころのない長治を見て、
「あの雰囲気は、何か持ってないと出ないよな」
 と言われるようなもので、それが何なのか分からなかったところに、コウモリ屋敷の話が出てきたことで、
「ほら、こんな能力を持っていたんだ」
 と、ばかりに飛びついたのだ。
 それが事実であろうが、ウソであろうが関係ない。
 長治に何か備わっているということにしてしまえば、長治を気になっている連中は納得するのだ。
 ただ、長治に何かが備わっているからといって、別に怖がることもない。むしろ今まで怖がっていただけに、逆に親近感がわくというものだ。
 その親近感は勝手に出てきたもので、自分から話しかけるつもりもないし、話しかけられても、気持ち悪いことには変わりない。
 何といえばいいのか、
「一種の必要悪のようなものかも知れない」
 というものであった。
 人間というものは、誰もが自分の中に、矛盾を抱えて生きている。そして、そんな自分に対し、少なからずの自己嫌悪を持っているものだ。
 だから、感情として、
「自分は、少なくとも誰かよりも、マシなのだ」
 という比較対象を求めるようになる。
 そこで、自分にとっての必要悪を作ろうとするのだ。
 世の中には、いくつもの必要悪があると言われている、
 悪というものにも、いろいろな解釈があり、
「本当は、悪というほどではないのだろうが、人に迷惑をかけてしまったり、自分を狂わせる可能性のあるものを、悪と呼ぶ場合がある」
 例えば、
「ギャンブル」
 などがそうであろう。
 カジノなどのような、一瞬にして、人生を終わらせてしまうようなものは完全に悪なのだろうが、パチンコやスロットなどはm適度に遊ぶ分には、気分転換になっていいだけなのに、嵌ってしまう人が多いことから、
「あんなものは、百害あって一利なしだ」
 という人もいる。
 そういう意味では、
「人によって、気分転換として必要なものだという人もいれば、嵌ってしまって、本当に悪になってしまう人もいる」
 ということで、合わせて、
「必要悪」
 と言われるのではないだろうか?
 これは、
「一人にとって、必要なものだが、悪である」
 というよりも、
 「社会生活上、必要な人もいれば、悪となる人もいる」
作品名:夥しい数のコウモリ 作家名:森本晃次