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夥しい数のコウモリ

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 それが、SF小説であり、地球人が、宇宙にロマンを求めて、他の星に行ったりするのも、SFのジャンルでもある。
 さらに人間は、宇宙空間の中に、
「地球以外の他の星に、生物が存在していないか?」
 ということを、必死に考えているものだ。
 というのは、前述のように、
「人間を滅ぼす宇宙生物が存在していて、虎視眈々と地球侵略か、あるいは地球滅亡をもくろんでいるかも知れない」
 と思うからだった。
「どちらの可能性が高いのだろう?」
 と考えた。
 SF小説などでは、侵略の方が強い気がする。しかし、長治の考えは違った。
「中級外生物は、人間よりもはるかに科学が発達してはいるが、そんなやつらだからこそ、自分たちの星以外に、知的生命体が存在することが許せないと思うに違いない」
 という発想を持っていて、だからこそ、地球を侵略するよりも、地球を一気に滅ぼす方を選ぶのではないか?
 と考えるのだった。
 あくまでも、占領するということは、相手を生かしておいて、自分たちの都合よく利用しようと考えることである。
「共存しよう」
 などという考えが果たしてあるのだろうか?
 地球内であれば、生きていく上の、共存の意義、
「例えば食物連鎖」
 のようなものがあるからだ。
 ただ、これだって、最終的には食べられることになるわけで、食料して存在しているだけだということであれば、果たして、それは、共存といえるのだろうか?
 食物連鎖は地球上だけで言えることなので、地球外生物にとって、共存という言葉は、最初からありえないものなのではないだろうか?
 そうなると、他の星にいる生物は、地球を滅ぼそうとするだろう、
「じゃあ、その時、コウモリは?」
 と考えてしまう。
「やつらだったら、何とか都合のいいことを言って、生き残るかも知れない」
 と考えた。
 そして、隙をついて、相手を滅ぼすかも知れない。そんなコウモリと手を結んでおけば、人間も、滅亡から逃れられるかも知れない。
 長治は、そんな大それたことを考えていたのだ。
 コウモリの研究はそこから始まった。
 非常に、歪んだような発想であるが、その研究が、曲がり曲がって、
「不治の病」
 への対処法として注目されることになるのだから、それは本人が一番驚いていることなのかも知れなかった。

                 大団円

 放射冷却という発想は、コウモリが出すと言われる、
「超音波」
 というところから始まった。
 コウモリが持っている、超音波というものと、絶対零度の物体以外が持っていると言われる電磁波というものが、どのように結びついてくるのかというところまでに辿り着くには、かなりの時間をようすることになったのだが、
「コウモリを見ていると、地球外に知的生命体がいたとして。やつらは、果たして、人間を意識するのか、それともコウモリを意識するのだろうか?」
 と考えた。
 それだけ、コウモリというのは、他の動物から隔絶しているので、分からない部分が多い。
 それは、密かに、コウモリという動物が人間よりも発達した知能を持っており、それを知られると、人間から滅ぼされる可能性を考えたからではないだろうか。
 それだけ人間という動物は、
「自分たちのような知的生命がこの地球上に存在することを決して認めようとしないだろう」
 と、コウモリが思っているのだとすれば、それは、人間が知的生命体に感じるのと同じ考えではないだろうか?
 コウモリからすれば、人間という生き物の存在は分かっているので、人間が地球外生物の存在を分かっていないことよりも、切実な問題だ。
 そんなことを考えていると、長治にとって、
「コウモリの研究は学者として、絶対不可欠なことなんだ」
 と思うようになっているのだった。
 コウモリの研究というのは、意外と難しいものではなかった。
 一つコウモリというものを、それほど難しく考えないようにしていると、
「あるきっかけにさえ気づけば、そこから先はとんとん拍子だった。そのきっかけを与えてくれたのが、例の卑怯なコウモリの話だったのだ」
 といえるのではないだろうか?
 案外と近くに、ヒントは転がっているもので、コウモリの性格と、人間の性格が、
「卑怯」
 というキーワードで結びついたのだ。
「何だ、難しいことを考えずに、自分の奥にある欲望や本能を思い起こしていけばいいだけじゃないか?」
 と考えた。
 人間は、羞恥心があったり、変なプライドを持っているので、人間のそんな部分を、知っていながら、悪いことだと思い、それを他の動物の習性のようなものになすりつけるような形で架空の話を作り、いや、でっち上げ、それを、自分たちへの警鐘としてなのか、物語として封印しようと考えていたのだとすれば、人間の本質は、案外とそういうところにあるかも知れないと言えるのではないだろうか?
 それが聖書や、日本でいえば、古事記など。まったく交流のなかったはずの場所で、似たような話が存在するのは、
「元来、人間は一つだったのだ」
 と考えれば、理屈に合う。
 まさに、
「アダムとイブ」
 であったり、日本で言えば、
「イザナギ、イザナミ」
 の世界に入るのではないだろうか?
「タマゴが先かニワトリが先か?」
 という問題解決を、
「最初に作ったのは、神なのだ」
 ということにしないと、最初から辻褄が合わないので、ここから、神々の伝説としての、聖書や古事記の話が生まれて行ったのではないかという解釈を、長治は考えていたのである。
 コウモリの超音波と、放射冷却の電磁波との関係が分かってくると、
「コウモリを研究することで、冷凍保存の発想が生まれる」
 ということで、研究が佳境に入ってきた。
 そんな中で、一人の青年が殺されるという事件が起こった。
 これは、他の人には、
「ただの事故だと思えること」
 であったが、実は、長治の研究を盗もうとしていた人の子供だったのだ。
 子供だから、普通の交通事故として捜査されたのだが、そのうちに父親も失踪してしまった。
 警察は、そのことを関連付けて捜査はしなかった。
 しかし、ちょっと考えただけで、交通事故で亡くなった子供の父親が、数日後に行方不明になるというのはおかしいだろう。
 なぜ、それが分かったのかというと、子供の交通事故がひき逃げだったことで、警察が、ひき逃げ犯を追っていた。その犯人と思しき人の確認を、父親にしてもらおうと思っただけだったので、ただ連絡を入れたのだった。
 しかし、電話がつながることがなかったので、会社に赴いてみると、
「実は、三日前から、会社に来ていないんです。無断欠勤なんて今までになかったのに」
 というではないか。
 三日前というと、子供が亡くなってから、初七日の次の日からではないか?
 何かおかしいと思い、家に行ってみると、家はもぬけの殻で、奥さんは実家に帰っていたとのこと、奥さんに聞いてみると、
「子供のことで喧嘩になって、私は実家に帰ったんです」
 という、
「どういうことですか?」
 と聞くと、
作品名:夥しい数のコウモリ 作家名:森本晃次