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夥しい数のコウモリ

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 子供向けの童話なのだから、滅ぼすというのは、少し過激と考えたのか?
「いや、他にももっと悲惨な話だってあったではないか?」
 ということを考えると、十分に滅ぼされてもしょうがない状況だったはず。
 それが滅ぼされずに済んだということは、
「コウモリのようなやり方が、決して悪いというわけではないんだ」
 ということになるのだろう。
 何としてでも生き残るというのは、
「卑怯であるが、悪いことではない」
 ということで、コウモリを、孤独で寂しい場所に追いやることにしたのだが、それがコウモリにとっての、
「不幸中の幸い」
 だったのだ。
 確かに、寒くて暗くてジメジメした孤独な場所に追いやられたことはたまらないことなのかも知れないが、逆にいえば、
「他の連中から攻められることも、衝突することもない。自分たちの世界が確立されて、その中で生きるのだ」
 ということであった。
 そのおかげで、それ以降、他の動物と関わることもなく、目が見えないというハンデも克服できるようになると、
「実は、これほどいいところもない」
 と思うようになったのだろう。
 人間の世界の言葉に、
「住めば都」
 という言葉もある。
 最初、追いやられた気分になっていても、住んでみて慣れてくると、これほど都合のいい場所はないというものだ。
 というのも、住んでみると、自分たちだけの世界を作ることができて、目が見えないと思い、不便な生活を強いられていたのは、最初だけ、そのうちに、
「超音波を使えばいいんだ」
 と、昔から自覚していた力を使うことを覚え、不自由もなくなった。
 しかも、他の動物から干渉されることもない。
「もしあっちの世界が欲しくなったら、俺たちの超能力で、いくらでも何とかできる」
 と思っていた。
 コウモリという動物に限ったことではないのかも知れないが、
「立場が劣勢になればなるほど、眠っていた潜在能力を容易に引き出すことができる力を持っているのだ」
 と思っていた。
「その力は、自分たちだけに、今は許されているものだ。だから、コウモリという動物は、人間なんかよりも、よほど、高等な動物なのかも知れない」
 と思っているに違いない。
 そんなコウモリという動物は、
「自分たちだけに許された、パラダイスを手に入れたんだ」
 と感じていた。
 住めば都どころか、それ以上のものが、ここにはある。それを思うと、他の動物に感謝したいくらいだ。
「そんなに戦が好きなら、お前たちは一生、戦にあけくれて生きて行けばいいんだ。俺たちが、このまま、ずっと戦のない世界で静かに暮らしていけばいいんだ」
 と思っていた。
 他の動物から、
「そんなジメジメしたところで、孤独に暮らしてもか?」
 と言われたとしても、
「孤独かも知れないが、それを寂しいと思うか、嫌だと思うかは俺たちの勝手だろう? 住んでみれば、これほど快適なことはないさ」
「負け惜しみじゃないのか?」
 と言われたとしても、満面の笑みで返してやるだけで、相手は、きっと、こちらの気持ちを悟ることだろう。
 それさえ分かっていればそれでいいのだ。自分たちだけのパラダイスに、他の動物に入ってこられて、踏み荒らされても困るからな。
 コウモリは、他の動物がコウモリを気持ち悪がったり、仲間ではないという思いを抱くよりも、自分たちが他の動物に感じている嫌悪の方が、かなり強いということを分かっていた。
「あいつらも、呑気なものだ」
 と、却って、殺伐とした世界に生きている連中を、何を根拠にしているのか分からないが、
「呑気だ」」
 という言葉を使うのだった。
「俺たちは、他の動物と違って、自由は手に入れたし、何よりも、困ったときには、超能力を発揮できるだけの能力を持っていて、絶対に滅びることはないんだ」
 と、もし、他の動物、とくに人間が、自分たちがあ滅びるだけでなく、他の動物まで巻き沿いにして滅亡させようとしても、最期に、現存している動物が生き残るとすれば、それは自分たち以外にはいないだろうと思っているのだった。
「コウモリという動物は、本当に獣でも、鳥でもないのだろうか?」
 と、学者のくせに時々、そんなことを考えたりする。
「実際に自分たちが知っているコウモリ以外に、他の種類のコウモリがいて、そのコウモリが、自分たちの知らない世界の、その洞窟の中に潜んでいて、暗躍しているのではないだろうか?」
 などとも考える。
 いろいろなことを、考えていると、学者である自分が、実は、小説家や妄想家にでもなったかのような気がしてきた。
 別に学者だからと言って、今までの先駆者による発明や発見と、
「絶対に正しいことだ」
 と思う必要などない。
 確かに先駆者の発明、発見は素晴らしく、敬意を表して感じないといけないものだと感じるのだが、だからと言って、
「それがすべての真実だ」
 という思い込みを持つ必要はないだろう。
 むしろ、
「他にも考え方があるのではないか?」
 と思う方が自然で、柔軟な考えになるのではないかと考えたりする。
「そうだ、意外とコウモリというのは、そういう柔軟な考えが持てる動物なのかも知れない」
 と考えると、
「人間だって、実際に弱いから、頭の良さが発達したのではないか?」
 と思うと、
「卑怯なコウモリ」
 という話は、人間臭さを表している話だと思うようになったのだ。
 ということは、コウモリほど、人間に近い動物はいないと言えるのではないだろうか?
 コウモリを研究することが、我々人間研究に一番近いものではないかと思う。それは、コウモリたちにも分かっていて、人間にそれを悟られないように、人知れず、隠れているのではないか?
 つまり、
「卑怯なコウモリ」
 という話は、彼らにとって逃げ出したくなるような問題を、何とか人間から離れるために、人間に敢えて、錯覚させるような話を、コウモリ側が作って、人間に勘違いさせようとしたのかも知れない。
 もし、コウモリがそれほどの高等な動物であれば、人間なんて、簡単に滅ぼされるかも知れない。
 と感じた。
 今まで人間は、他の動物に対して、さほど恐怖を感じたことはない。むしろ、自分たちが滅びる場合は、自分たちの行いによるものだという発想が、大半を示していた。
 例えば、核戦争であったり、自然破壊によっての異常気象からくる、天変地異のようなものであったり。だからこそ、人間は自分たちに対し、警鐘を鳴らすような話しばかりを書いていたのだ。
 そういう意味では、他の動物から滅ぼされるというような話を見たことがあっただろうか?
 確かにそんな話は見たことがないような気がする。
 今までの自分たちがどんな生き方をしてきたのか、人間はどんな動物よりも賢く、優れているという発想であり、それは地球上の生き物に限ってのことだった。
 人間を滅ぼそうとする動物は地球上には存在しない。
 もっとも、細菌のような伝染病は別であり、その場合は、前述の、自然破壊から来るものだという発想の方が強いに違いない。
 だから、発想は宇宙に飛んでしまう。
「宇宙からの侵略者」
 という発想。
作品名:夥しい数のコウモリ 作家名:森本晃次