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夥しい数のコウモリ

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 この作品は、大いなる問題提起を引き起こし、その後のマンガやアニメ、特撮などのSFフィクションに多大なる影響を与え、特に、ロボットアニメなどの黎明期には、それらの発想に近いものをアニメや実写による特撮として、現れていた。
 その中のロボットマンガの一つに、ある科学者が、他の金持ちの科学者から期待され、ロボット開発の資金を得ながら、人間と同じような形のロボットを開発し、人工知能を作り上げた。
 博士は、そのロボットに、ロボット工学三原則という基本的な回路を取り付けると同時に、いわゆる、
「良心回路」
 と言われる、善悪の心を持つことができる回路を取り付ける予定だった。
 それは、自分に援助をしてくれた人の本当の狙いが、金儲けと、ロボットを使った、自分の帝国のようなものを作るという野望だった。それに気づいた博士が、悪の組織をいうことを聞かないロボットを作ったのだ。
 しかし、寸でのところで、悪の組織に襲撃され、ロボットには、不完全な良心回路しか入れ込まれなかったので、悪と戦う中で、その不完全な部分と、完全な部分が葛藤し、苦しむというものであった。
 そこで出てきた悪のロボットに、コウモリ型のロボットがあった。
 彼がいうには、
「俺に以前博士は、良心回路のようなものを入れた。それはお前に入っているよりも、もっと粗末なものだったので、それほど苦しむことなく、悪に心を奪われることになった。それでも自分はかなり苦しんだ。まわりからは、気持ち悪いと言われたり、日和的だって言われたりしたものだ。だから、俺は自分を中途半端な形でこの世に生み出した博士を憎んでいる。しかも、お前は、俺なんかよりももっと性能がいいそれでも中途半端な良心回路をつけているので、俺の何倍も苦しいはずだ。もう苦しまなくていいから、お前も苦しみから解放されて、俺たちと一緒に悪のために行動しよう」
 といってきたのだ。
 主人公のロボットは葛藤したが、それには、中途半端ながらに、良心が、コウモリロボットに比べて、かなり正義に近かったのだ。
 その苦しみはハンパではなかったが、結局正義に芽生えて、悪を懲らしめるわけだが、
これも、ロボット工学三原則の矛盾に苦しむことになる。
 要するに、何も考えずに三原則を純粋に守っていれば、そこまで苦しむことはない。しかし、そこに良心回路などというものが、なまじ入っていることで、正義のロボットはいつも苦しむのだ。
 しかしこれは、人間の思春期、つまり、成長過程において陥る、誰にでもある葛藤を、、ロボットに身を借りる形で、物語にしているわけである。
 そのテーマのために、悪のロボットをコウモリ型にしたというのは、作者なりの、思い入れがあったに違いない。
 作者が、イソップ寓話の、
「卑怯なコウモリ」
 という話を知っていて、ロボット工学三原則に対する話のキャラクター、つまり、ロボットのモデルとなるものに、コウモリを選んだというのは、実にタイムリーなことではなかっただろうか。
 卑怯なコウモリという話を知らない子供たちであっても、コウモリというものが、
「鳥や獣に似てはいるが、その中途半端な様相に、日和見的な発想が見られる」
 という考えが浮かんできたことは、容易に想像ができるのではないだろうか?
 しかも、コウモリというのは、目が見えないという特徴があり、
「そのために、超音波を使って、あたかも目が見えているかのような状況を作り出している」
 という発想を与えられ、しかも、そんな風な状況にされてしまったのが、
「どちらにもつかずに、うまく立ち回っていた」
 という卑怯なエピソードから来ていると繋がった時、
「悪のロボット」
 という発想と結びつくのだった。
 正義の主人公も、中途半端な状況なので、この同じシチュエーションではあるが、
「正義と悪」
 という正反対のものに同じような側面を見させることで、
「果たして、正義と悪、どちらが正しいのか?」
 という、ロボットの悲哀を考えることをテーマにしていた。
 ただ、これはあくまでも、大前提として、ロボット工学三原則があるということは、
「絶対的な優位性は人間にある」
 ということであった。
 だから、ロボット同士が敵である理由は、その対象となる人間に対しての考え方であった。
「人間を傷つけるものは、悪であり、人間を助け、人間のために戦うものが、正義なのである」
 という考え方。
 これは、
「主題はあくまでも、ロボット同士の戦いであるが、基本的に、人間というものをロボットがどう考えるか?」
 ということをテーマにしていた。
 そもそも、良心回路の、
「良心」
 というものは、ロボット工学三原則に見られるものを、ロボット独自の判断で、さらに進化させ、
「人間を助けるにはどうすればいいか?」
 ということで、人間にとって、都合のいいものが、正義だという考えだ。
 つまり、人間こそが神であり、ロボットを作った人間には逆らうことはできないのだ」
 という、
「人間から見た神」
 と同じ発想である。
 人間だって、心の底では、
「神には逆らえないものだ」
 と思っているから、神仏を敬ったりする意味で、崇拝物を作ったりしているではないか。
 宗教によっては、崇拝物を禁止しているものもあるが、基本的に、
「人間は神を崇めるものだ」
 という発想に変わりはない。
 そういう意味で、
「ロボット工学三原則の根本は、宗教にある」
 といってもいいのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
「しょせんは、人間が人間を支配するために考えられたものが、おとぎ話であったり、寓話のようなものではないか?」
 と思える。
 そういう意味では、
「おとぎ話や寓話は、神話を子供用にしたものである」
 といってもいいのではないだろうか?
「宗教というのは、人を正悪のどちらに導いているのだろうか?」
 ということを、考えさせられるのだった。
 そんなコウモリに対して、長治は深い造形を抱いていた。
 決して表に出ないようにしているように見えるコウモリであったが、一度、
「卑怯なコウモリ」
 として、脚光を浴びた。
 それは、確かにまわりに対して、
「卑怯とも思える方法で生き残る」
 という、印象としては、最悪なものではないだろうか?
 しかし、それでも、コウモリはコウモリなりの方法で生き残ろうとしている。それを卑怯だという言葉だけで片付けていいものだろうか? 戦っても勝てるわけのない相手に対して、何とか生き残ろうとするのは、それも、その動物の習性であり、本能のようなもの。そういう意味では、
「戦ったとしても、頭を使ったとしても、生き残った者が勝ちなんだ」
 といえるのではないだろうか?
 そんな中において、獣と鳥の戦が行われている間は、何とかそれぞれにいい顔をして生き残ってこれたのだが、戦が終わってしまうと、お互いに冷静に話をするようになった。
 その時、コウモリの話が話題になり、
「あいつは、どちらにもいい顔をして、なんてやつだ」
 ということで、皆から、総スカンを食らうようになる。
 だが、だからと言って、コウモリは滅ぼされたわけではない。
作品名:夥しい数のコウモリ 作家名:森本晃次