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夥しい数のコウモリ

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 そんなことを考えると、その運転手がどのように思って飲酒運転をしたのか、聴いてみたいものだ。
「ちょっとの距離なので、警察がいないと思った」
 というものか、
「事故さえ起こさなければ、それでいいんだ」
 というものか。
 これらは、どちらにしても、
「警察を舐めている」
  と、まず考えられる。
 そして飲酒運転に対して、どれだけ警察が敏感になっているか、それだけ、大きな社会問題になっているのだということを、知らなかったということになる。社会人として、そんな常識的な社会観が欠如しているだけで、会社で仕事をする資格さえないというものだ。
 そして、
「ちょっとなら」
 という、実に甘い考え、これも、社会人として、当然備えておくべきものとしての、
「危機管理能力」
 の欠如と言えるだろう。
 他の人まで見るというわけではない。
 たった一人、自分のことだけを考えればいいのに、それすらできないのであれば、社会人としての適性に、致命的な欠陥があると言っても過言ではないのだ。
 さらに、もう一つ、
「皆やっていることじゃないか?」
 という意識があるかどうかである。
 これに関しては、矛盾も孕んでいる。というのは、どうして、皆がやっているかということが分かるのかというと、
「毎日のように飲酒運転した」
 と言って捕まっているではないかと思っていることである。
 そこで、実名入りで容疑者と報道されているのに、そちらに注目するわけではなく、
「あの報道がいいたいのは、それだけたくさんの人が飲酒運転をしているということだ」
 と言って、都合のいい方に解釈をするのだ。
「どうせ皆がやってるんだ。それだけたくさんの人がやっているのだから、俺が捕まるという可能性だって、限りなくゼロに近いのではないか?」
 と考えるのかも知れない。
 それは、捕まらないということを前提に考えているというよりも、理論的に考えて。それでも、捕まらないという、最期まで都合のいい解釈をするのだから、甘いというか、お花畑発想とでもいえばいいのか、正直、
「情けない」
 と言ってもいいだろう。
 どうして、
「あれだけ、報道されているのだから、俺が捕まる可能性だってあるんだ」
 ということで、普通の人なら、
「分母が増えれば、分子が増えるのか確率だ。確率が変わらないのであれば、捕まる可能性は限りなく増えたはないか」
 と、どうして思わないのか?
 捕まってしまうと、
「ああ、俺は運が悪かったんだ」
 と言って、諦めるというのだろうか?
 都合のいいようにしか考えられない人間に、反省の二文字はありえない。そうなると、
「ついていなかっただけだ」
 と言って、自分を納得させるしかないだろう。
 言い訳と言ってしまえばそれまでなのだろうが、言い訳がまかり通るようでは、世の中のリズムが狂ってしまう。
 今まで当たり前として、無意識に過ごしてきたことが、当たり前でなくなってしまうと、社会は混乱し、ついてこれない人も増えてくる。
 たった一人のわがままを通してしまうほど、世の中は甘くないということで、うまく、回っているのが今の世の中だろう。
 ただ、民主主義である以上、
「多数決」
 であったり、
「貧富の差」
 を、仕方のないこととして片付ける風潮をサラッと流してもいいのだろうか?
 そんなことを考えていると、
「民主主義が決していいとは思わないが、一人一人が、法律やモラルを破って勝手なことを始めてしまうと、民主主義ほど、脆いものはない」
 と言える気がした。
 社会主義のように、国家が強いと、そんなことはないだろう。国家が個人の自由を締め付けているからなのだろうが、それが決していいことだとは言えないが、バランスの問題でもあるのだ。
 そもそも、社会主義というのは、そんな民主主義の限界を超えた、理想の社会を作り上げるということで出発したはずなのに、いつの間にか、
「悪である」
 というレッテルを貼られてしまい、実際に、社会主義というのは、
「粛清」
 と、
「国家による圧力」
 という一番分かりやすい形での安直な方法で、平等を表そうとするのだから、当然、そこに無理が生じて、
「自由」
 つまりは、
「人の命」
 というものまで、ないがしろにしてしまっているのではないかと思えるくらいなのだ。
 かつての、ソ連や今の中国などがそうであろう。
 ただ、それに立ち向かい、
「世界の警察」
 を辞任し、
「代理戦争」
 などというものを引き起こした、いわゆる、
「東西冷戦」
 というものは、いかがなものだったのだろう。
 そもそも、冷戦のきっかけを作ったのは、欧米列強ではなかったか。
 世界大戦が終わり、戦後処理として残った問題、ポーランド、朝鮮、さらに、日本やドイツの占領の問題など、それが朝鮮戦争を引き起こすことになった。しかも、その頃、東南アジアでは
「独立」
 という機運が高まっていた。
 そもそも、日本が戦争に突入した理由が、
「東アジアの列強に植民地にされている国を開放する」
 というスローガンだったことが、日本が敗戦したことによって、戦後にその火ぶたが切って落とされるというのは、実に皮肉なことだった。
 特に、インドシナ問題は深刻だった、インドシナは、元々がフランスの植民地だった。日本が、大戦前に、列強から経済制裁を受けていたので、それを打破するために、
「南方進出」
 というものが必須だったが、当時ヨーロッパでは、ナチスの侵攻が激しく、フランス本国は、パリの政府が、さっさと逃げ出して、戦争にならずに、パリが占領されるということになった。
「無血開城」
 というのは、聞こえはいいが、要するに、
「フランス政府が国民を置き去りにして、自分たちだけが逃げ出してしまった」
 と言ってもいいだろう。
 そこで、ナチスはフランスに、自分たちの都合のいい、
「傀儡政権」
 を作り上げ、フランスも枢軸国の一員になったのだ。
 ドイツと同盟を結んでいた枢軸国である日本は、枢軸国の仲間入りをしたフランスの傀儡政権に、
「インドシナの攻略」
 を願い出たが、同じ同盟国のようなものなので、許可は当然下りるだろう。
 そういう意味では、
「日本による、仏印侵攻というのは、国際法的には合法である」
 と言っていいだろう。
 それを、侵略というのはおかしなことで、それによる経済制裁の強化は許されないものだったはずである。
 しかし、日本が敗戦となり、アジアの主要な国が、アフリカなどの国と同じように、独立を目指し、宗主国との戦争に発展することも多かった。
 インドシナも同じ状態で、戦後、フランス本国で元々の政府が戻ってきて、国家が元に戻ると、インドシナ支配へと、舵を切り始めるのだが、他の国と同様、インドシナでも、独立運動が激化していた。
 特に、ホーチミンによる、
「ゲリラ戦」
 では、フランス軍は翻弄され、フランス軍による支配は難しくなってきたのだった。
 実際に、フランス軍は、歴史的な大敗を、それまでの植民地の国にするという、恥辱をあじわった。
作品名:夥しい数のコウモリ 作家名:森本晃次