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夥しい数のコウモリ

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 また、この人が、数年、いや、数十年経ってから、ふいに目覚めでもすれば、そこはカルチャーショック、知っている人はおらず、いきなり自分は、何十年も経って、年を取って生き返るわけである。頭の中は、時間が経っていないのに、身体と、まわりは年数がたっているわけだ。こんな形で目を覚まして、
「よかった。よかった」
 となるだろか?
「あのまま死んでいた方がマシだった」
 ということになりかねないのではないだろうか?
 それを思うと、
「生きるということがどういうことなのか?」
 ということを思い知らされるだけである。
 そういう意味では、
「冷凍保存による延命」
 というのと似ている。
 それを、人権問題団体が、一番に声を挙げるのではないだろうか?
 ただ、大っぴらにはいえない。
 これを問題にするということは、
「尊厳死に対しても言及することになる」
 というわけである。
 一つだけでも、答えが見つからないのに、もう一つが問題になるということは、これほど大きな問題というのもないということだろう。
 もし、人権団体が声を挙げなかったとしても、実際に今の世の中で、
「不治の病」
 で苦しんでいる人も少なくはない。
「うちだって、冷凍保存させてもらいたい」
 といって、殺到するだろう。
 ただ、実際に、できるようになったとして、費用も問題、機械の確保、さらに、患者の家族との話し合い。
 さらには、死んだ場合の責任の所在。たぶん、冷凍保存を依頼した時点で、手術の時のように、不慮の事故があったりした場合、冷凍保存を行う側の責任は一切問わないなどという誓約書は書かせることになるだろう。
 半日で終わる手術でさえ、そんな誓約書が必要なくらいである。
 もっとも、実際に死んでしまえば、そんな誓約書など、紙切れ同然で、訴える人は訴えるのであろうがである。
 そんなことを考えていると、いつ自分が植物人間になるか、あるいは不治の病に罹るか分からない。本当は皆、心の準備が必要なのではないだろうか?
 冷凍保存に関しては、実際にできていない。やはり、できたとしても、前述のような社会的問題が解決しないと、先に進まないからだ。
 これは、ロボット開発における、
「ロボット工学三原則」
 であったり、
「フレーム問題」。
 さらには、タイムマシン開発における。
「タイムパラドックス」
 であったり、
「マルチバース理論」
 などというものと同じであろう。
「開発できたものを、この世に晒す前に、直面するであろう問題は、解決しておかなければいけない」
 ということである。
 それを思うと、人間にとって、何が大切なのかを思い知らされることになる。
 確かに、一番大切なのは、命である。
「命あってのものだね」
 とは言われるが、だからと言って、風前の灯火になった命、回復の見込みは限りなくゼロに近いと言われる命。それと比べるものといえば、その人間の尊厳と、家族の尊厳の問題である。
 確かに家族は、患者には、
「助かってほしい」
 と思うに違いない。
 しかし、実際には、助かるかどうか分からない命のために、自分の生活を完全に犠牲医することになるのだ。
「もういい加減、自由にしてやってもいいじゃないか?」
 と周りの人はいうだろう。
 まわりの人から見れば、本人も家族もどちらも苦しく、この先、不幸になる道しか見えないのであれば、そう思うのも当然のことである。
 そんな中において、医者お立場としては、
「助かるかも知れない命が1%でもあれば、救うのが医者の勤めであり、日本では安楽死は認められていないので、もし、生命維持装置を医者が外せば、殺人罪ということになるかも知れない」
 と言われる。
 最近では、その時々の事情で、判例は変わってきているようだが、基本的には安楽死は認められていない。
 だから、生命維持装置を外せば、その時点で、殺人としての容疑がかかるのはしょうがないことであろう。
 それを分かっていて、医者にどこまで勇気があるかである。
 医者としては、家族から頼まれることもあるだろう。
 ただ、実行犯が医者というだけで、殺人教唆には変わりない。
 当然、家族は本当は生き返ってほしい気持ちはあるだろうが、そのために、残った家族全員が不幸になるというのは、理不尽である。
「あの人だって、そんなことを望んでいるんだろうか?」
 と、植物人間となった人は思うだろう。
 それが、安楽死の問題である。
 しかし、
「冷凍保存」
 という問題は、それに比べれば、かなりいいことではないだろうか?
 なぜなら、
「人の命を助けるため」
 ということだからである。
 放っておけば、必ず死ぬという状態の人の延命である。倫理的には、かなり違う。
 しかし、問題は、数十年後に生き返った時である。
 自分の死っている人は、十年以上も年を取っていて、その間の歴史を持っている。
 それは、自分の知らないものであり、その間に、知っている人は変わってしまったかも知れない。
 結婚を考えていた人が、すでに結婚していたり、そもそも、相手は、自分よりも数十歳上なのだ。下手をすれば、同い年だった人が、自分が冷凍された時の親と同い年になっているかも知れない。
 その間の時間を、果たして埋めることができるだろうか? ハッキリ言って不可能である。
 なぜなら、
「その人も、今一緒に時を過ごしているわけで、相手との距離は相手が、冷凍保存されない限り、縮まることはないのだ」
 そんな状態になって、生き返ってきたとして、果たして、幸せだと言えるだろうか? その時死んでおいた方がよかったのかも知れない。これから生きていかなければいけない自分の人生に、果たして自分で責任が持てるのだろうか?
 それを考えると、
「神が定めた運命に逆らっても、ロクなことはない」
 といえるのではないだろうか?
 そんな中で、冷凍保存の方法は、シークレットであったが、どこから漏れたのか、方法について、ウワサが流れるようになった。
 そのウワサとして、上がったのは、方法というよりも、その場所の特定であった。場所が特定されたことで、その方法が明るみに出たといってもいい。
 それが、樹海の奥にあると言われた、長治の屋敷だった。
 そこは、通称、
「コウモリ屋敷」
 と言われていたが、その場所は、以前から、
「何か怪しげな研究をしているのではないか?」
 ということで、警戒はされていた。
 今から二十数年前にあった、ある宗教団体の、
「テロ活動を思わせる」
 あの時は、毒ガスを開発し、それを公共交通機関でばら撒くというもので、田舎の村で、大きな工場を作成し、地元住民が、立ち退き運動を行っていたが、結局、警察も公安も動かなかったことで、未曽有の大惨事を招くことになった。
 警察も公安も、何と言っても、
「何かが起こらないと動かない」
 いや、
「動けない」
 ということから、どうしようもなくなってしまったのだ。
 だが、そも宗教団体の方では、警察の行動を必要以上に気にしていて、どうやら、警察内部にスパイがいるようで、その人の情報で、
「近いうちに、組織の工場に、立ち入り捜査が入る」
 ということが情報をして入ったようだ。
作品名:夥しい数のコウモリ 作家名:森本晃次